監督ウイリアムス師就眠の報、我國に傳わるや、日本聖公會は悲痛哀悼を極めた。豫て歸國の其時から、老衰の御身なれば、最早餘命も長かるまじと、人々は私かに心配し、早晩此事あるべしとは期したる事ながら、其訃音に接しては今更の如く、驚愕惜く所を知らず、滋父を喪へる幾多の信仰上の子女は、痛哭悲叫するも尚足らざるを覺へた。同時に言ひ知れぬ嚴肅の感がした。就眠後の第一の金曜日或は第二の金曜日には、北東京地方及京都地方の諸敎會は、何れも紀念追悼禮拜式を擧行せられたるが、左に掲ぐるものは、大阪、京都、東京に於ける追悼禮拜式の状況にして、基督敎週報及び惠の音紙上より、轉載したものである。
大阪に於ける追悼禮拜式『時は明治四十三年十二月九日、故監督就眠後第一週の金曜日、茲に大阪西區川口基督敎會に於て、最も崇嚴なる追悼紀念禮拜式執行せられたり。是より先堂内は川口約翰保羅贖主四敎會の姉妹等の手に依り、敬愛追慕の眞情を込めて美しく而かも嚴かに裝飾せられ、入場者先づ肅然敬虔の念に打たれぬ。と見れば正面聖壇上の高き處In his stepsと白菊もて描ける額は掲げられ、此聖徒の全生こゝに在りと座ろに其高風盛德を想はしめ壇上を飾れる白菊、白花の十字架、靑葉白花打交りたる花環等、すべては此高潔なる人格に於て死は眞に是れ凱旋なり安息なり向上なりと物語れるものゝ如く感ぜられ、四方を蔽へる黑き幕に深痛なる悲哀は表現せられたり。聖書臺の右方稍や高く故監督の肖像、黑布に包まれ二の花環の閒に安置せられて、其温容に接せしめぬ。やがて午後七時定刻至り、故人愛吟聖歌三四九番歌はるゝや、司式者山田長老を先頭に、田中、布施、織閒三傳道師、河合、森、松井、木庭、チヤプマン、コレル、名出、早川、山縣諸長老、及びフオス監督等白衣の一列は、牧師館より出でゝ會堂に入り、肅々チヤンセルに進み居列ぶ。その壯嚴なる光景に、會衆は畏敬の念に打たれ、靈氣堂内に滿ちぬ。
コレル長老の聖語朗讀、咏歌隊の詩九十篇交唱、松井長老の聖書朗讀、渡壁孃の「天より聲ありて」以下の唱咏あり。五十餘年日本傳道に奉獻したる高貴なる生涯は、今更の如く深く會衆の心裡に響けり。チヤプマン長老宣敎師を代表し弔辭を述べらる。凡そ人類に偉大なる感動を及ぼす人物に三種あり。一は偉大の功績を建て大事業を後世に遺せるもの、二は深遠なる思想と該博なる學識とにより人智を進め世代を益せしもの、三は高潔なる品性により大なる感化を後世に貽すものなり。監督は一二の資格なきにあらず、然れども特に第三の高潔なる品性と謙遜柔和服從犧牲獻身の模範により偉大の感化を與へ、神前に多くの收穫を爲したる人なりと説き、病を冒して列席せられたる早川長老は門下生を代表して、一昨年京都に於ける最後の會見の模樣、當時の感想、故人が遂に鄕里に歸られし理由、門下生に對する慈愛、終生忘れ難き聖き感化、門生の敬愛追慕の眞情をば語らる、言々句々悲壯沈痛、會衆は涙にかき暮れぬ。信徒代表並河氏の懷舊談、博愛社小橋氏の弔辭、何れも聖者の面影を偲ばしめぬ。それより獨唱の名人コレル夫人の聖歌一五三番の獨吟あり、瀏喨たる妙音は或は高く或は低く、喞々として心を動し、恰も天上の凱歌に接するの概ありき。次で名出長老の説敎、彼前二○廿一の聖語は、故監督が終生從はんと務められし事なりとて、故人が其使命を重じ終生を日本に獻げたりしこと、其貧生活は日本敎役者を思ふ至情より出でしものなること、質素儉節なりしこと、獨立の人なりしこと、意志の強固たりしこと、良心の命に從ひしこと、而かもなほ謙遜にして自らを虚うしたること等、其他聖き美しき品性の模範を述べられ、終に莊重の語を以て我等は此の聖徒を記念し其足跡を踏むべきことを勸められ、深刻なる印象を與へ各自の責任を感ぜしめたり。斯くてフオス監督の最終の祈禱と祝禱を以て、此嚴肅なる記念の式は終り、會衆一同の聖歌九一番「たゝかひをはりていくさよりかへるきみをほめうたふ」合唱は、天の榮冠、師の頭上に輝くを思はしめつゝ、日本聖公會の永遠に記念すべき忠誠敬虔の聖徒のゆへに、ハレルヤ主の聖名を賛美しつゝ、監督長老傳道師の一隊は、しづしづと堂を退きぬ。時に九時四十五分なりき」。
京都に於ける追悼禮拜式『ウイリアムス老監督が、故鄕リツチモンドに於て永眠せられてより七日を經たる、明治四十三年十二月九日午後七時、老監督が最後の事業として我日本に捧げられたる京都聖約翰敎會に於て、三敎會即ち聖約翰、聖三一、聖マリア聯合し、パートリツチ監督司式の下に追悼禮拜式は擧行せられたり、今其順序を左に。
奏樂裡に安倍傳道師、カスパート、曾根、山邊の三長老、セシル、パートリツチの二監督は聖壇に進む。
一 聖語 パートリツチ監督
一 勸告 同
一 懺悔 會衆一同
一 赦罪 パートリツチ監督
一 主禱 會衆一同
一 詩篇(九一、一三〇、一四五) カスパート長老
一 聖書朗讀(申命記三四) 安倍傳道師
一 聖マリアの頌 會衆一同
一 聖書朗讀(默示録二一) 山邊長老
一 シメオンの頌 會衆一同
一 使徒信經 同
一 祈禱 セシル監督
一 聖歌九十一 會衆一同
一 吊辭感話 安倍傳道師
一 同 山邊長老
一 同 曾根長老
一 聖歌二九三前半 會衆一同
一 吊辭勸告 セシル監督
一 同 パートリツチ監督
一 聖歌二九三後半 會衆一同
一 祈禱 パートリツチ監督
一 祝禱 同
一 聖歌一二五 會衆一同
右にて式を終る時に午後九時、本日特に聖壇は黑布を以て淸楚に飾られ、其禮拜式は最も嚴肅に執行せられたり、諸師の熱烈なる感話には思はず袖を濕さしめし、又セシル監督は特に本禮拜式のために東京地方を代表し、
且英國側を代表して出席せられたり、老監督は今や亡しあゝ、現世に於ては再び其温容に接する能はず、其最後の地たる京都にある吾人特に其感を深くす。因に記す聖歌二九三は老監督の愛吟にして、特に三三八の譜を附して會衆一同唱和せり。會するもの百五十名』。
東京に於ける追悼禮拜式『十二月十六日(金)午前八時紀念聖餐式執行、司式スヰート長老、補式多川長老、當日の特禱として埋葬式中の一つの禱を用ひ、使徒書帖前四○十三十八迄、福音書は約五○二四-二九迄を特用せられたり。陪餐者は三十二名なりしが、此中には遠き地方より態々來會せられたる方も多かりき。午後六時より左の順序に從ひ紀念禮拜を行はれ、杉浦長老の質直なる追懷辭は、故監督を偲ぶと共に大に自己の責任を感ぜしめ、田井長老が追慕の涙の中に監督の平素を語られしには、滿場二百五十の會衆一人として流涕を禁ずる能はざると共に大なる敎訓を與へられ、終りにスヰート長老は莊重な英語を以て追想を述べられ、嚴肅にして情愛に充たる好禮拜式にてありき。散會前司會者より奬學金の件に付報告ありたり。同會の所期を全ふせしめ、有意の敎役者を養成したきものなり。因云ふ當夜用ひられし諸聖歌は故監督の愛用せられたるものゝ由。
聖歌 第七
晩禱 司會 長老 多川幾造
詩篇 十五、七十二 長老 小林彦五郞
第一日課賽(イザヤ)四○ 長老 皆川晃雄
第二日課約(ヨハネ)十四 長老 今井壽道
聖歌 三五五
追懷辭 長老 杉浦義道
Hymn No. 342 The Hymnal
同 長老 田井正一
聖歌 三二三
追懷辭 長老 スヰート
Hymn No. 667 The Hymnal
祈禱 長老 キング
祝禱 長老 スヰート
聖歌 二九三
式服着用列席せられしは前記諸聖職の外は、アーチデヤコノ、キング、ワレス、ウエブ、クツク、タツカー、メードレー、ウエルボン、ロイド、片田、大藤、小川の諸聖職にして、會衆席には南北兩地方の聖職、傳道師、敎會委員、其他老監督に關係ありし古き信徒諸兄姉を見受けたり』。
監督が歸國の後、東京北地方及京都地方の師を敬愛追慕する人々の閒に、何とかして師を永く記念したしといふ思考か、期せずして起つた。而して東京北地方の有志者は、師の歸國後直に相談の結果、師の最も喜ばるべき記念方法の一として、師が日本に遺しゆかれたる事業の一なる、東京三一神學校に神學生奬學金を置く事に決し、左の趣意書及び規則を發表された。監督シー・エム・ウイリアムス奬學金募集主意並規則
過去五十年閒日本の爲めに獻身されたる監督ウイリアムス師、餘命を鄕里に養はんとして今回長く我國を辭去されたるにつきては、同師の薰陶を受け若くは其高風を景慕する同人相謀り、「監督シー・エム・ウイリアムス奬學金」を私立專門學校東京三一神學校に設置し、以て長く同師を紀念せんと欲す、此主意を賛成せらるゝ諸氏は左の規則に準じて出金あらんことを希望す。
規則
(一)本會を監督シー・エム・ウイリアムス紀念奬學會と稱す。
(二)本會の假事務所を東京府北豐島郡巣鴨村字庚申塚一二六番地瀧乃川學園内に置く
(三)奬學金を受くべきものは必ず三一神學校敎授會に於て推薦せし優等生とす。
(四)會員の出金年額一株を金二圓五拾錢とし一人にして一株以上を出金することを得。
(五)送金は瀧乃川學園會計部振替貯金口座第三四一四番に拂込むことを得。
(六)有志者より臨時に寄附ある時はこれを受け會員の出金に合して奬學金に充つるものとす。
(七)本會に理事五名(理事長一名、書記二名、會計二名)を置き毎年一月總會を開きこれを撰擧す。
(八)本會は毎年一月前年度の會計收支決算を會員に報告すべし。
發起人
元田作之進 杉浦義道 落合吉之助
山縣雄杜三 大藤鑄三郞 阪井德太耶
多川幾造 長田重雄 小林彦五郞
小宮珠子 戸塚録三郞 石井亮一
本規則は來年一月總會開會まで假にこれを用ひ又役員は來總會に於て撰擧するまで發起人に於て其事務を處理す。
師の永眠後京都地方に於ては、大正二年四月開會の第十六回地方會に於て故監督紀念の事を決議し、之が實行委員を擧けた。實行委員は、追慕碑建設並に傳記出版の計畫をなし、左の趣意書を發表した。
故監督シー・エム・ウイリアムス師追墓碑建設費並に傳記出版費募集趣意書
昨年一月、日本聖公會の一長老は、故監督ウイリアムス師の鄕里にして、亦其終焉の地なる米國ヴアージニア州リツチモンドに至り、ホーリウツド墓地事務所を訪て、故日本監督ウイリアムス師の墓所は那適に在やと尋ねしに、事務員等は日本監督などの墓は此所に無と答ふ、長老は押して、確に其親族なるハリソン家の墓地に在るを聞けりと曰ひしに、彼等は始て心付き、さては其監督と言るゝは、曾てハリソン氏方に寄寓せし彼の老翁のことなるか、我等は斯る榮職に在りし人なるを知らざりしなりと、乃ち事務員に導かれてハリソン家の墓所に至れば、彼、其中央なる墳墓の僅に寸土を盛り、之に鬼蔓を植付たるものを指して曰く、是れ其墓なりと、寒墳寂寞、當時は認識すべき一基の墓標すらもなかりき、長老先師の高風と目前の光景を聯想して感懷轉た切に、低徊去に忍びざるの情ありしと云ふ、聞く處に依ば其後遺言に從ひ御影石の小十字架一基其上に建てられしと。近く彼地より歸任せし某宣敎師曰く、予は老監督の墓所を尋しも遂に見出し能はず空しく去れりと。嗚呼吾が先師は五十年の公生涯を擧て日本の爲に獻げ了り、高齡老病にして歸り至りし時には、既に其鄕人にも將た其敎會にも忘れられ、今は其墓所すらも易く人の認る者無からんとす、思ふに斯の如きは謙德厚き吾が先師に取てや寧ろ會心のことなるべきも、抑も亦た其靈の子孫たる我等の情として、不幸、先師の遺骸を此國土に留むる能はざりしに加ふるに、其鄕土終焉の地に於ける遺蹟までも斯の如く將に堙滅に歸せんとするを知るに於て、誰か痛惜の情に堪へんや。本年四月第十六回京都地方會は故ウイリアムス監督紀念の事を決議し之が實行委員を擧げたり、依て該委員は東京北地方部の有志者と相謀りて、此爲めに二個の方法を取らんとす。一には我國の名石御影石を以て、故老監督の追墓碑を作り、之を日本聖公會有志者の名を以て米國に贈り、本年歸國せらるゝマキム・タツカー兩監督に乞ひて、りツチモンド市ホーリーウツドの墓上に建設の式を執行し、聊か以て先師に對する我等の追慕の赤心を表し、亦た彼の鄕里と敎會に向ひて彼等が此偉人を吾等に與へし恩澤を感謝するの微意を致さんと欲す。二には故監督の傳記を編纂して師の盛德の紀念を止めんと欲す、蓋し故監督の生涯は神の特に我聖公會に給ひし聖徒の模範にして、其行蹟を文獻に保存するは獨り吾人の信德修養の指針たるのみならず、亦以て後至の子孫の爲に永く靈的生活の範を示す所以なり。唯だ先師の德の隱れたるもの餘りに多くして、吾人の知る所少きを遺憾とす。幸に元田博士其他の諸氏數年來意を茲に致して其資料を蒐集せらるゝあり、之に加ふるに編輯上一層の努力を以てせば庶希くば先師の面目の一端を知るに足る可き傳記を成し、以て其高風の感化をして彌廣く久しからしむるを得べき乎。思ふに此二者は神學生養成の目的を以て、既に設けられしウイリアムス監督奬學資金並に老監督最初傳道所なる大阪川口基督敎會紀念會堂建築の計畫と共に、吾人が先師追慕の丹心を表するに相應しき事なりと信ず。追慕碑の建設及び傳記出版に要する費用概略左の如し、願くば汎く同感の士の賛助に倚りて其目的を達せんことを。
追慕碑建設費豫算
一金百貳拾圓 御影石碑製作費
一金八拾圓 米國まで運賃其他雜費
計金貳百圓也
一金參百圓 傳記編纂出版費
合計金五百圓也
通信及事務費 外に金貳拾圓
傳記は醵金者に配布す
一寄附金募集期日は本年六月三十日限とす。
一寄附金は一人五十錢以上とす。
一會計事務は凡て大阪府西成郡神津村博愛社小橋實之助氏宛の事(振替貯金口座大阪六七六番)
一其他の事務に關しては大阪市東區南新町二丁目三十四番地早川喜四郞へ御照會を乞ふ。
大正二年五月
京都地方部故ウイリアムス監督記念實行委員
長老 ゼ・ゼ・チヤプマン
同 菅 寅吉
同 吉村大治郞
同 早川喜四郞
執事 阿倍 謄
北東京地方部有志者
長老 田井正一
同 元田作之進
同 小林彦五郞
京都地方部故監督紀念實行委員の計畫は、意外の同情と賛助を得て、忽ちにして豫定の資金を得るに至つた。追墓碑は大坂にて竣功し、米國聖公會傳道會社に託して、ヴアヂニヤ州リチモンド市に送り、
紀元千九百十三年(大正二年)十一月七日午後三時三十分、折から歸國中の北東京地方監督マキム、京都地方監督タッカー兩師、及び在米の小林長老列席して、最も嚴肅に献碑式を執行した。左に掲ぐるものは、當日列席したる小林長老の通信である。
『マキム監督の着市の日取兔角都合亞敷く献碑の式日定まりかねし由にて、余は更に献碑式について聞かざりしが、突然十一月五日南の方ワシントン市(滯在)タッカー監督より通信ありて、十一月七日(金曜)リツチモンドに於てウィリアムス師記念碑献碑式ある故直に來れとの事なり、翌木曜日直に夜汽車にて南行、金曜日即ち七日朝リツチモンドに着く、ヴアジニヤ監督キブソン師宅に赴きぬ。師は其兩孃と共に歡迎、南方州特有の歡待の至情を傾けられぬ。今に始めずヴアジニア人の温情快しとも快し。トイスラー氏は同家の親戚にて而かも半町の近隣に住せらる。式は午後なれば朝餐の後同氏宅を訪ふ。ト氏夫妻及び看護婦ジママン孃及び四人の小兒一同歡迎、數日の後日本に歸るとて祖先傳來なる同夫人の家宅を疊まんと家財道具を函詰にする最中なり。兔角する中タッカー監督はヴアジニヤ大學にての演説を了して倉皇として着市。午餐迄暫時の暇あればとてトイスラー氏は親族所有の自動車に我等二人を乘せて市中見物の幸を與へらる。悲哉實業主義の魔力今や南部をも昧して、古雅閑靜なる南方紳士の邸宅市なりしリツチモンドも、今や漸くに變じて魔空の峻屋及び煙突林立の近代市とはならんとす。されど舊態依然たる古きリツチモンドの部分も無きには非ず。トイスラー氏は左視右盻或はリー將軍が敗兵を率ひて後進せし舊道を指し、或は奴隸時代の煙草の市場を示し、或はゼームス河を渡りつゝ我等をして此古河に纏綿せる千百の歴史を回顧せしむ。
ト氏が醫學校卒業後開業せし家は今や主人を知らぬ商店とは化しぬ。歸りて午餐を倶にしト氏の集金苦心談を聞き、又夫人が百年傳來の祖先の家を人手に渡す感慨を耳にして左こそと同情しぬ。程なく式場出發の時刻も迫ればタッカー監督と共にキブソン師宅に赴く、至ればマキム監督も他の要務を了して僅かに少時前着されたりとなり、馬車に三監督及余の四人同乘してホーリーウツド墓地に向ふ、先づ墓地チヤペルに着し一同法衣を纏ふ。是より先キブソン監督は別掲の執行順序を印刷して之を携へ、チヤペルにて市のボーイスカウツに與へらる(因に云ふ此は近來米國の諸市に組織さるゝ少年男子の會にして惡少年團に反して公衆の利益となるべき少年相應の善事を爲すもの橫濱市にも此會あり)數人の少年カーキー色の會服を着して甲斐しく我等の馬車に隨行す、チヤペルより二町餘を行きて墓地に達す。
献碑式
老師逝きましゝより春秋早くも三たび來去しぬ。舊知も既に謝し去つて殘れる者はた幾千人ぞ。況や師の終生己を抹殺して其高德密かに尊骸と草葉の下に隱るゝをや。余は來會者の極めて少數なるべきを豫期しぬ、圖らざりき。墓を圍りて立てる男女實に二百を數へ、しかも多くはリツチモンド市の代表的士女ならんとは、中に老師の令甥にして終り迄溢るゝの温情を以て師を看護せしハリソン氏及夫人、令姪ダニエル夫人及其一兒の外同市聖公會の諸牧師十數人、トイスラー氏キブソン監督の兩孃等ありき。老師の遺芳隱れんとして能はず、早くも既に其感化顯はならんとしつゝあり。
徐ろに傾斜せる芝生約五十坪ばかり、繞らすに枳穀を以てす、柏の老樹楓の巨幹生垣の外に散在して立つ、内に數個の墓あり、皆土を盛りて長さ六尺幅二尺計りなり、此れぞハリソン家の先瑩なりける。下より視て左手の高き所の隅なる墓こそは即ち老師の其なり、懷かしき哉親愛なるウイリアムス師此下に眠り給ふ余は一目視るより胸躍りぬ、胸塞りぬせき來る涙を奈何にせん。じつと忍びて打眺むれば今日は白菊黄菊打混ぜて其上を飾り、前面の長さ三尺幅二尺厚さ一尺五寸計りなる石碑橫はり、冠らすに高さ二尺計なる石の十字を以てし、碑に老師の姓名職名在任年月及生死の年月を刻したり。更に其前面には日本より寄贈の石碑白布に蔽はれて立つ、司會者ヴアジニヤ監督キブソン師碑を右にして高所より下に面して立ち、北東京監督マキム師其右に、京都監督タツカー師其左に余は師の左に立てり、婦人のクワイアー十數人は余等の背後に並びぬ、ボーイスカウツ靜かに巡りて、生垣の三方に立並べる來會者にプログラムを配る。來會者は言ふ迄もなく黑衣黑帽なり。
此日天晴れて雲甚だ稀なり、秋巳に晩くして午下の風凜たりといへども、吹く事徐ろにして此嚴肅の聖式に副ふ。散り殘れる楓葉を漏れて射し來る夕日は雪の如き法衣に落ちて眩きばかりなり。
定れる三時半は來りぬ。キブソン師嚴かに開會の趣意を短かく述べて式は始まりぬ。先づ米國聖公會讃美歌百七十六を歌ふ(古今聖歌集百二十五)、婦人クワイアーの發聲悲愴にして余は唯だ默しぬ。友よ我が塞がる胸を奈何にせん、湧き來る萬斛の涙を奈何にすべき、抑へ抑へて暗涙眼鏡の裏に忍びたりとも咎め給ふまじ。讃美歌了りてギブソン師は特に此偉聖徒の模範の爲めに神を讃め、其聖き跡を履み得ん爲めに祈りぬ。恭しく垂れたる會衆の頭は上りぬ。又百七十九番の讃美歌は歌はれぬ(古今聖歌集)、司會者の適當なる紹介に次で、タッカー師は日本有志信徒の代表者として大略左の如く語りぬ。
タッカー監督の演説
此記念碑は日本聖公會の有志信徒によりて送られたり、ウイリアムス師は日本の第一監督にてありき。
師が初めて日本に傳道されたる時は困難百出手のくだすべきなかりしが、師は言語よりも其高尚なる生涯によりて之に當り、以て基督敎の意味を證明したり。數十年に亘れる献身至誠の傳道の後、師は實に基督敎の反對大に減じ、却て日本人の歡迎を受け、終に日本敎會の設立を見たり、師は監督と云ふ公人としてよりも、個人として日本人に愛慕されたる人なり。其自己犧牲其聖行其温風其高德眞に欽慕を禁ずる能はざらしめぬ。基督敎を知る日本人は皆師を知る、此愛と感謝の意を表したしとの至情より紀念碑寄贈を企るや、幾百人の信徒は爭ふて之に加はりぬ、故に此碑は啻に師の働きのみならず個人の愛の徴にして、また基督敎の活ける註解なり。余は其代表者として此式に列席を依賴されたり云々
再び百七十七番は歌はれぬ。次にマキム監督はギブソン師の紹介によりて感慨無限の口氣もて此く語られぬ。
マキム監督の演説
一九一○年此リツチモンド市に高尚にして謙遜極りなき一人の聖徒は逝きぬ。靑春外國傳道に志し一八五五年ヴアジニア神學校に入り、卒業後支那に赴ぬ、其四年間の傳道は磐根錯節の裡にありき。ペレーの條約日本と結ばるゝや、日本最初の宣敎師は聖公會員にして、實にリギンス氏とウイリアムス氏なりき。開國と稱すと雖も實際は鎖國の樣にして宣敎の途は容易に開かれざりき。軈てリギンス氏は病を以て歸國しウイリアムス氏獨り居殘りぬ。氏は此て七年間淋しき生涯を絶東に送られぬ、其間或は米國の間牒とまで疑はれし事もありき、語るべき友なきのみか、日本語を學ぶべき良書もなく、其困難察するだに涙の種なり。七年の苦衷奮鬪氏は實に一人の改宗者を得ざりしなり、此七年間は師のゲツセマネと謂うべき歟。一八六六年米國に歸り支那監督に任ぜられて、揚子江沿岸の監督となりしが、日本を忘るゝこと能はず自ら謂ふて江戸監督となれり。爾來奮鬪献身の働きの結果として、一人の改宗者なかりし初よりして、退職の當時には堂々たる日本聖公會の建設を見るに至りぬ。其同情其愛其温顏其献身宣なり日本人が彼を一種の超人の如くに仰ぎし事。
余は親しく悲嘆絶望の時に師の慰籍を受けてギレアデの甘露の如くに感じたることありき。師は今や逝けりと雖も數百人の活ける碑文を遺しぬ、師や死せりと雖も尚ほ言ふと謂ふべし。日米兩敎會は日本第一監督チヤンニング、ムーアー、ウイリヤムス師の紀念を永へに尊重して措かざるべし。此くて一同使徒信經を唱へ六百七十二(古今聖歌集二一○)を歌ひ、ギブソン師の祝福を以て式を畢りぬ。
式終るや司會者はボーイスカウツを呼んで白布を除かしむ。卷物形の御影石碑は茲に衆目の注射點となりぬ。金字の日本文の碑銘は夕日に映じて眩くも亦た鮮かなり。「アヽ美し」と人々の咳きは初めて嚴かなる沈靜を破りぬ。ダニエル夫人、リツチモンド新聞及サヾンチヤーマン通信社を初め、數十人余を要して反譯を迫る、余は先づ日本語にて之を讀み次で能ふ丈け之を英譯す、突差の業原文に公平ならざりしを憾とす。「道を傳へて己を傳へず」の一節尤も人を滿足せしめ且つ感嘆せしめたり。
斯くて一同は老師の生涯によりて大なる敎訓を受けしのみならず、日本信徒の至情に深く感動し「何等美しき事ぞ」と口々に余に語りつゝ歸途に就きぬ。
此時日は西山の頂を摩して、殘照頗る明にはらはらと落つる楓葉の色一入紅なりき。
式後
式後會衆中より進み來りて堅く握手する者二人あり。共に二十年前ヴアジニヤ神學校に道を學びし友にして、何れもリツチモンド市の敎會を牧す、驚喜禁じ難く少時昔物語りに耽りぬ。歸路ハリソン氏の請により、三監督と同邸を訪ひ老師の舊室に入り、師が日夕腰かけられしといふ椅子に坐しぬ、左の肘掛けには丸形の小さき板を附けたり、此は師が書を載せて讀まれるものなりといふ感慨限りなし。今は玉突室となり居れるこそ憾みなれ。
ギブソン師邸に歸れば、墓地にて語し舊友の一人スコストは來りて余を待居れり、再び一時間も問ひつ問はれつゝ一別以來の身の上を語り、舊友の歴史近状をも聞きぬ。余はギブソン師宅にて兩監督と丁重なる饗應を受け、マキム監督と同じ汽車にて翌朝ニウヨークに歸りぬ。此はマセチユセツツ州ホリヨークなるヘーウツド氏の故鄕にて、翌日日曜日セントポール敎會に説敎の先約ありしが爲なり、同敎會牧師は早川氏の同窓生なり。
献碑式に就てはギブソン監督の盡力一方ならず、寄贈者は深き感謝の義務を同師に負ふと謂べし、同師には余も深く謝辭を述べしに、「否とよ此は我等の盡すべき本分又特權なり」との挨拶ありたり。
只遺憾なるは大藤長老の列席なかりしと、式の實況の撮影なかりし事なり、されど墓地の寫眞は後日タツカー監督より送らるゝなるべし。
附言リツチモンドに着して暫時後、ギブソン監督より式場にて何か言ふかとありしが、プログラム既に出來上り、且つ兩監督の演説ある事にもあり、突差に適當の辭を纏め得べくもあらず故に辭しぬ』。
京都地方部故監督紀念實行委員は、師の人格及其事業の一端を知るに足る可き傳記を出版すべく、地方會後直に此事業に着手し、織間小太郞氏は頗ら資料蒐集の任に當り、吉村大次郞氏は重要なる文書飜譯の勞を執られ、元田作之進氏を主任として、編輯に力を盡されたるが漸く大正三年六月に至り稿成り、こゝに本書の出版を見ることゝなつた。
監督ウイリアムス師傳 終