監督は歸國するに先ち、一日自ら記したる日誌記録類を寸裂し、僕に命じて悉く燒却せしめた。當時師の圖書の整理を命ぜられた一聖職は、如何にも貴重なる師の記録を灰燼するに忍びず、何とかして僅少なりとも殘留せんと欲し、散亂したる反古中より、古びたる十册餘りのノート、ブックを取り上げ、師の書籍と共に書棚に配列し置いたので、幸に現今師の書籍と共に大切に保存されてある。此等の記録を繙讀するに、斷片ではあるが、中に日本聖公會歴史編纂のために、參考すべきものを發見するのみならず、師の精勤、信仰、周到なる注意等を知らしめるもので、如何にも貴重なる遺書である。此處に師の記録中より或部分を拔萃して、讀者に紹介しよう
現代に於ては、外國人が日本語及日本の事情を研究するに、完全なる辭書もあれば、アストン、チャンバレン、グリフィス諸氏の日本に關する良著書が多くあるから、至極便益にして其勞は少いが、我が開國の初期に於ては、斯る良書は一册もなく、就て學ぶべき邦語敎師は容易に得られなかつた。フルベツキ氏の著書によれば、神奈川に於ては蔓延元年三月までは、一人の邦語敎師をも聘雇することができなかつた。偶ま雇ひ得れば、そは幕府の牒者であつたといふ。かゝる事情であつたから、當時外國人が日本を研究し、國語を學習する其困難は到底今日名状することはできぬ。されば監督が當時の苦心慘憺其勞の多大なりしことを察すべきである。監督が其困難の中に、日本語及日本を研究するために、精勵刻苦された事は、左の事實に徴しても察知しることができる。古びたる一記録帳を繙き見ると、紙表紙裏の隅に、見覺ある師の筆跡にて、日本の假名を以て左の如く記載されてある。
サマノスケノコスイワタリ
タイコウサマノセンナリビヨウタン
コトタレバタルニマカセテタラヌモノタラデコトタルミコソヤスケレ
此記録帳の始の部には、羅馬字にて孟子の支那語音讀を記載しあることより考ふれば、此は師が支那在住の時より所持されたるものらし、而して日本の假名にてかゝる事實及び和歌を記し得る迄には、一年以上を要せば、多分文久二年頃の筆跡であらう。尚ほ最も古くより所持せられたりと思はるゝ一册の記録があるが、其表紙の裏には、
Edict against Christianity
[#キリスト教禁教令]
キリスタン、シユウモンノ、ギハコレマデ、ゴキンセイノ、トヲリ、カタク、アイマモルベキコト。
とある。此は師が自ら心得のために、最も見出し易き表紙の裏面に、記載したのであらう。同じ表紙の裏面に、左の道歌と俚言を記された。
ツヽシメヨ、ホタルホドナル、ワツカノヒ、コヽロユルスナ、ハヤ、カネ(Bell)ノコヘ、ヲカメハチモク、
また記録中にいろは歌の解釋を載せられた。
いろは歌の解釋
色は艷へと、散りぬるを(諸行無常之義)
我世は誰ぞ、常ならむ (是生滅法之義)
有爲の奧山、今日越えて (生滅々已之義)
淺記夢見し、醉もせず (寂滅爲樂之義)
假字本末十一卷之上
色ハ隆艷散去ルヲ、我世誰ゾ有常、有爲ノ奧山今越テ、淺キ夢不見醉モ不爲、
涅般槃經に四句ノ頌語アリ是ヲ梵語モテ書シ或ハ漢語モテ書シ日本語モテ書シアリ今其二ヲ記ス
同四句頌日本語
いろはにほへと、ちりぬるを、わかよたれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこえて、あさきゆめみしゑひもせす、
以呂波發音訓傳
色はと云ふ句より、常ならんと云ふ迄は、衆生の流轉と云ふ、有爲の奧山と云ふより醉もせずに至る迄は、衆生の還滅成佛を云ふ、然れば以呂波注解に云京者涅槃常住之都向謂、有爲奧山今日越者歸法之都也淺夢不見者安住法性之都也
更に左の物語は英文にて記さる。
大和國吉野山の奧に、大峰と稱する山あり、役の行者を祭る、彼は降世後凡そ七百二十年頃、死したる人にして、山伏宗の開山なり、彼が偶像は絶壁の洞窟内にありて、彼自ら安置したるものなりと傳へらる、凡そ山伏たらんと欲するものは、先づ其像を拜せざるべからず、而して之を拜せんと欲せば、絶壁に懸れる鐵の鎖に寄りて、
洞窟内に降らざるべからずと謂ふ、時には絶壁の頂上に伏し、頭を突出してのみ禮拜を献くるものあり、かゝる場合には、其人に代りて他の者を洞窟内に降らしめざるべからず、而して彼等は常に山伏なる先達に導かれざるべからざるなり、若し夫れ普通の參詣者にして、山伏ならざる時は、頂上に伏し先達なる山伏をして、其足を持たしめ、其頭を絶壁に突出し以て洞窟内を凝視するのみ、
其時先達は彼に問ふて曰く、汝將來善を行ふや、父母に孝行なるや、汝の心を改むるや、然らずんば絶壁より汝を放棄すべしと、爰に興味深き一例あり、先達か以上の如く問ひたる時、或者は我は先達の言に從ふてかゝる約束をなす能はずと答へたりしかば、
彼は遂に先達のために放棄せられたりき、今や彼の身體は千丈の深谿に達して、將に粉碎せんとする時、俄然大天狗顯現れて彼を攫み、彼を安全に頂上に携へたりき、天狗謂へらく彼が先達の命に應ずることを拒みたるは、專心一意以て父母にのみ孝順ならんことを、表する行爲に外ならざるなりと
以上は唯だ一例に過ぎぬ。其他俗神道、純神道、佛敎等に關する記録も多くあるが、詳しく記述することはできぬ。要するに、以上の事實により、師が日本語及び日本を研究するために、如何に周到なる注意を拂はれたるか、如何に其勞の多大であったかを推知することができる。p>
長崎在留約七年間は、殆んど直接傳道をなすの餘地がなかつたから、監督は專ら日本語の研究と飜譯事業に從事せられた。師の書信によれば、文久元年に飜譯事業に着手し、主禱文、使徒信經、十誡、及び小兒のための小册子を和譯し、續いて馬太福音書の數章と祈禱書の一部分を飜譯された。師はまた其頃和英辭書の編輯に着手せられしと見へ、師の記録と共に其原稿が殘存してをるが、之は完成せられなかつた。思ふに此は、支那日本監督に任ぜられ、敎務が多端になつた爲に放棄せられたか、或はヘボン氏がかゝる事業に着手せられたと聞いて、中止せらるゝに至つたのであらう。明治五年には、祈禱書中早晩禱、嘆願、特禱、洗禮式文、信徒按手式文等を飜譯され、大阪に於ける第一回の洗禮式執行の時は、和譯洗禮式文が使用せられた。又其頃聖歌Rock of Ages「よゝいわわれて」を譯し、續いて「われをばたのまじ」、「なみかせのあらき」、「われのかみに」、「十字架にかゝりし」等を譯された。
明治十一年英米聖公會宣敎師及び香港のバーデン監督と、ウイリアムス監督とは東京に會し、既に監督が飜譯された早禱、晩禱、嘆願の日本語祈禱文を採用することを承認し、且つ聖餐式、先禮式、堅信禮式、公會問答を飜譯し出版する爲め委員を選定した。明治十五年には、監督は祈禱書の大部分と、他の飜譯委員と協力し、詩篇の大部分を飜譯された。明治十六年米ミツションに屬する第一の邦人聖職按手式には、監督の譯された會吏聖別式文が用ひられた。
師の記録中に、主禱文、使徒信經、使徒信經問答、壯年先禮式等の邦語譯が記載されてあるが、之等のものを見るに、其文體古風にして術語未だ定らず、飜譯術も幼稚なると、長崎時代の記録と共に記載しあるより考ふるに、其時代の作なるは疑ふべからざるものであるが、師が良好なる飜譯を得んと、一方ならぬ苦心した事は、左に記載する如く、主禱文の種々なる邦語譯あることを以て知らるゝのである。
實に唯だ邦語敎師を相手として、かゝる難事業を執られたる其困難、想像するに餘あることである。以下原文のまゝに記載すれば、
テンニ、マシマス、ワガチヽヨ、アナタノオンナハ、セイトナシタマヘ、アナタノクニハ、オイデナサレマセ、アナタノゴシユイハ、テンノヤウニ、チニモオコナハレヨ、ワレラガモチユルダケノ、シヨクモツヲ、コンニチ、ワレラニ、アタヘタマヘ、ワレラニ、ツミオフヒトヲ、ワレラカユルスヤウニ、ワレラガオウツミモ、ワレラニユルシタマヘ、ワレラヲコヽロミノウチニ、イザナヒタマフナ、モツトモ、ワレラヲ、アクヨリスクヒタマヘ、クニヤ、イキホヒヤ、エイクワナド、ミナヨゝ、アナタニツイテオルニヨツテ。
天ノ吾父アナタノ名、聖トナリタマヘ、アナタノクニ、來リ給ヘ、アナタノ旨意、天ニ行ルヽガ如ク、地ニモ行レヨ、我等ガ用ユルダケノ糧ヲ、今日我等ニ與ヘ玉ヘ、我等ニ罪ヲ負フ人ヲ、我等ガ免ス如ク、我等ガ負罪ヲモ免シ玉へ、我等ヲ惑ノ内ニ誘キ玉フナ、乃我等ヲ惡ヨリ拯ヒ玉へ、國モ勢モ、榮光モ、アナタノモノデヤルニヨツテナリ。
天に在す我父、君の御名は聖となし給へ、君の國は來り給へ、君の意天と同じく地にも行はれよかし、我等が用ゆる所の糧を今日我等に授け給へ、我等に罪負ふ人を、我等が赦す如く、我等が負ふ罪をも赦し給へ、我等を試の内に導き玉ふべからず、然りと雖我等を惡事より救ひ玉へ
國、勢ひ、榮光、皆代々、世々君に屬するに因てなり。
以上は師の記録中に記載されたるものであるが、序なれば尚ほ師の手に成れる他の譯文を掲載すれば、
天にましますわれらの父よ、ねがはくはみ名をあがめさせたまへ、み國をちがづかせたまへ、みこころを天になすごとく、地にもなさしめ給へ、われらの日々の糧を今日もさづけたまへ、われらが人のつみをゆるすごとく、われらのつみをもゆるしたまへ、われらをこゝろみらるゝことに、みちびきたまはず、なほすくひてあくよりいだしたまへ、國と權と威光はあなたのかぎりなくもちたまふものなればなり亞孟。
此譯文は何年頃の飜譯なるや、明了ならざれど、未だ活版術の行はれざりし頃のものなるが爲めにや、木版にて印刷された。また明治十年一月、東京深川西元町三一敎會(現今の眞光敎會、淺草東仲町講義所の爲に、活版にて印刷せられたる左記の譯文があつた。
主禱文
天にましますわれらの父よ、主の聖名を聖となさしめ給へ、主の御國をきたらせ玉へ、主の聖旨天にをこなわるゝごとく、地にもをこなわせ玉へ、われらが日用の糧を今日もあたへ玉へ、己に罪なす人をわれら赦す如く、われらの罪をもゆるし玉へ、われらを試みらるゝことに導き玉ふなく、却て惡よりすくひ玉へ、國も權威も榮光も世々に主の物なればなり、
あゝめん。
以上は唯だ主禱文を以て、監督の飜譯の一例を示したのであるが、以て師が飜譯事業に如何に苦心せられたるかを、窺ふことができる。
左に記載するものは、フツベツキ氏より、監督に贈られたる書簡にして、師の遺書中より發見したるものである。フルベツキ氏は、安政六年十一月長崎に來着し、明治二年まで同地に滯留したれば、リギンス氏が歸國の後は、長崎在留數年間、監督の唯一の友は、フルベツキ氏であつた。されば兩氏の間の友情は實に親密であつた。フルベツキ師は、亞米利加改革敎會の宣敎師なりしに係はらず、師の子女等は聖公會に屬し、ミス、エマ、フルベツキ、ミスター、チャニング、エム、フルベツキの二人は、監督より信徒按手式を領した。左の書簡は兩師の親密なる友情の一端を示すと共に、現今吾人の使用する舊約詩篇は、兩師の協力にて飜譯せられたるものにて、之がために如何に兩師が苦心せられたるかを窺ふことを得べく、若し夫れ吾人にしてかゝる飜譯の困難を察し、以て和譯聖書に對する時は、先輩諸氏の勞に對し、實に感謝の念禁じ難きを覺ゆるのである。
『我親愛する監督、
小生が希伯來の原文の如く飜譯したる詩第三十九編を、御受領あらんことを請ふ。小生は或る諸點を除くの外は、既に貴君の飜譯せられたるものに、一致せしめんことを力め申候。固より貴君が汝の語に代ゆるに主、をもての語に代ゆるににて、しめに代ゆるにさせを使用せられたることを了解致申候。然れども多分貴君の望ませらるゝ如き、尚ほ變更致され申候時には、何卒後に御通知被下度奉願候。
末節に關し小生が典據とすべきものは、悉く"Look away from me"と譯するを至當の如く解せしめ申候。然らば「我を不問にし給へ」(使十七○三十)と、謂ふ語よりも近き意義ある語を發見し、若くは考ふることさへ出來不申候。我を不問し給へば、我を不問にし給へと異なり、且かくしては適合せぬ樣相考へ申候。此節の眞の意義に關し、小生は路十三○八を回想致申候、"Lord let it alone(貴君の用語)This year also"かく埋葬式文にも使用有之候。不問といふ語は小生には美はしく被感申候。怒(をこりて)、若くは怒りて、若くは睨み等の語を、「むかひ給ふ勿れ」の前に插入せば、宣しからんと奉在候。千八百八十一年十月三十一日
信實なる友
シ、エフ、フルベツキ』
監督の遺書數百卷は、現今は類別整理されて、京都地方部監督事務所内の圖書室に保存されてあるが、何れも時代の大著述にして珍重の書に非るはない。
師が修養深く薀蓄の學者なりしことか推知さるゝのである。師は殊に古典に精通したさうである。監督は讀書家であつた。旅行中も巡回に出られた時も、餘暇さへあれば讀書を樂まれた。監督が單身孤獨の生活を送らるゝので、定めて寂寥であらうと、時々來訪者は、監督さんお獨りで寂しう御座りませうと尋ぬると、監督は、イヽエ私ちつとも寂しくありません、多くの友人があります。其友人は私より信仰の篤い德の高い人々ですといふ。其友人は何處に居ますかと問へば、監督は微笑ながら書棚の書籍を指さし、彼はジヨン、クリソストム、此はアウガスチン、彼方はフランシス、此方はバジルですと、答へらるゝが常であつた。
監督は薀蓄の學者であつたが、其學識思想を文筆を以て發表し、社會人心を指導するやうな質の人ではなかつた。それ故に監督にはこれぞといふ著述はなかつた。僅に監督の著述として傳つて居るものは、何れも傳道上の必要に迫り、已む能はずして筆を執られたものであつた。それも自己の名が社會に知らるゝを欲しなかつたから、一として監督の署名がない。卷頭の序文には著者識すと書てあるが、其著者の名は何處にも記してない。監督の著述せられたるものは左の書である。
「聖餐の友」、「聖書の讀法」明治廿五六年に出版されたもので、前者は聖餐式に倍かる者の靈的準備を説かれ、後者は聖書を讀む者の心得を説きたるものである。何れも反覆熟讀すべき敬虔なる書にして、師の篤信高德を偲ばしめ、其警咳に接する思あらしむ。此兩書は現今は、殆ど絶版のやうであるが遺憾の事である。
「使徒信經問答」、「十誡問答」、「主禱問答」、「洗禮問答」、「堅信禮問答」、何れも洗禮堅信禮志願者の準備に用ひるために、問答體にて説明せしものである。之れ等の最初の出版は、何年頃なるか明ならざれど、既に文久年間に、主禱文、使徒信經等の飜譯に着手せられ、明治六年には祈禱書中の必要なる部分は飜譯されたれば、餘程早くから手書と成つて、志願者の準備に用ひられ、其後木版にて出版されたものが、幾度か訂正されて現形と成つて出版されたのである。
「敎會歴史問答」上中下續き六册より成り、初代並に中世敎會から、英國聖公會、米國聖公會それより日本聖公會初期に至るまでの歴史を問答體に記したるもので、師が晩年の著述にして、明治四十年十二月に出版された。