第十四編 監督の記録と著述

第十四編 監督の記録と著述

一、日本及び日本語研究 

 監督(かんとく)歸國(きこく)するに(さきだ)ち、一(じつ)(みづか)(しる)したる日誌(につし)記録類(きろくるゐ)寸裂(すんれつ)し、(しもべ)(めい)じて(ことごと)燒却(せうきやく)せしめた。當時(たうじ)()圖書(としよ)整理(せいり)(めい)ぜられた一聖職(せいしよく)は、如何(いか)にも貴重(きちやう)なる()記録(きろく)灰燼(くわいじん)するに(しの)びず、(なん)とかして僅少(きんせう)なりとも殘留(ざんりう)せんと(ほつ)し、散亂(さんらん)したる反古中(ほごちゆう)より、(ふる)びたる十(さつ)(あま)りのノート、ブックを()()げ、()書籍(しよせき)(とも)書棚(しよだな)配列(はいれつ)()いたので、(さひはい)現今(げんこん)()書籍(しよせき)(とも)大切(たいせつ)保存(ほぞん)されてある。此等(これら)記録(きろく)繙讀(はんどく)するに、斷片(だんぺん)ではあるが、(なか)日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)歴史編纂(れきしへんさん)のために、參考(さんかう)すべきものを發見(はつけん)するのみならず、()精勤(せいきん)信仰(しんかう)周到(しうたう)なる注意等(ちゆういとう)()らしめるもので、如何(いか)にも貴重(きちやう)なる遺書(ゐしよ)である。此處(こゝ)()記録中(きろくちゆう)より或部分(あるぶぶん)拔萃(ばつすゐ)して、讀者(どくしや)紹介(せうかい)しよう
 現代(げんだい)(おい)ては、外國人(ぐわいこくじん)日本語(にほんご)(および)日本(にほん)事情(じじやう)研究(けんきう)するに、完全(くわんぜん)なる辭書(じしよ)もあれば、アストン、チャンバレン、グリフィス諸氏(しよし)日本(にほん)(くわん)する良著書(りやうちよしよ)(おほ)くあるから、至極(しごく)便益(べんえき)にして其勞(そのらう)(すくな)いが、()開國(かいこく)初期(しよき)(おい)ては、(かゝ)良書(りやうしよ)は一(さつ)もなく、(つい)(まな)ぶべき邦語(はうご)敎師(けうし)容易(ようい)()られなかつた。フルベツキ()著書(ちよしよ)によれば、神奈川(かながわ)(おい)ては蔓延(まんえん)元年(ぐわんねん)(ぐわつ)までは、一(にん)邦語(はうご)敎師(けうし)をも聘雇(へいこ)することができなかつた。(たまた)(やと)()れば、そは幕府(ばくふ)牒者(てふじや)であつたといふ。かゝる事情(じゞやう)であつたから、當時(たうじ)外國人(ぐわいこくじん)日本(にほん)研究(けんきう)し、國語(こくご)學習(がくしふ)する(その)困難(こんなん)到底(たうてい)今日(こんにち)名状(めいじやう)することはできぬ。されば監督(かんとく)當時(たうじ)苦心(くしん)慘憺(さんたん)其勞(そのらう)多大(ただい)なりしことを(さつ)すべきである。監督(かんとく)(その)困難(こんなん)(うち)に、日本語(にほんご)(および)日本(にほん)研究(けんきう)するために、精勵(せいれい)刻苦(こつく)された(こと)は、()事實(じじつ)(ちよう)しても察知(さつち)しることができる。(ふる)びたる一記録帳(きろくちよう)(ひもど)()ると、紙表紙裏(かみへうしうら)(すみ)に、()(おぼえ)ある()筆跡(ひつせき)にて、日本(にほん)假名(かな)(もつ)()(ごと)記載(きさい)されてある。

サマノスケノコスイワタリ
タイコウサマノセンナリビヨウタン
コトタレバタルニマカセテタラヌモノタラデコトタルミコソヤスケレ

 (この)記録帳(きろくちやう)(はじめ)()には、羅馬字(ろうまじ)にて孟子(もうし)支那語(しなご)音讀(おんどく)記載(きさい)しあることより(かんが)ふれば、(これ)()支那(しな)在住(ざいぢゆう)(とき)より所持(しよぢ)されたるものらし、(しか)して日本(にほん)假名(かな)にてかゝる事實(じじつ)(およ)和歌(わか)(しる)()(まで)には、一(ねん)以上(いじやう)(えう)せば、多分(たぶん)文久(ぶんきう)年頃(ねんころ)筆跡(ひつせき)であらう。()(もつと)(ふる)くより所持(しよぢ)せられたりと(おも)はるゝ一(さつ)記録(きろく)があるが、(その)表紙(へうし)(うら)には、

Edict against Christianity
   [#キリスト教禁教令]

キリスタン、シユウモンノ、ギハコレマデ、ゴキンセイノ、トヲリ、カタク、アイマモルベキコト。

とある。(これ)()(みづか)心得(こゝろえ)のために、(もつと)見出(みいだ)(やす)表紙(へうし)裏面(りめん)に、記載(きさい)したのであらう。(おな)表紙(へうし)裏面(りめん)に、()道歌(だうか)俚言(りげん)(しる)された。

ツヽシメヨ、ホタルホドナル、ワツカノヒ、コヽロユルスナ、ハヤ、カネ(Bell)ノコヘ、ヲカメハチモク、

また記録中(きろくちゆう)にいろは(うた)解釋(かいしやく)()せられた。

いろは(うた)解釋(かいしやく)

(いろ)(にほ)へと、()りぬるを(諸行無常之義)
我世(わがよ)(たれ)ぞ、(つね)ならむ (是生滅法之義)
有爲(うゐ)奧山(おくやま)今日(けふ)()えて (生滅々已之義)
淺記(あさき)夢見(ゆめみ)し、(ゑひ)もせず (寂滅爲樂之義)
假字本末十一卷之上

(いろ)隆艷(にほへと)散去(ちりぬ)ルヲ、我世(わがよ)(たれ)有常(つねならむ)有爲(うゐ)奧山(おくやま)(けふ)(こえ)テ、(あさ)夢不見(ゆめみず)(ゑひ)不爲(せず)
涅般槃經(ねはんはんぎやう)に四()頌語(しようご)アリ(これ)梵語(ぼんご)モテ(しよ)(あるひ)漢語(かんご)モテ(しよ)日本語(にほんご)モテ(しよ)シアリ(いま)(その)二ヲ(しる)

(どう)()(しよう)日本語(にほんご)

いろはにほへと、ちりぬるを、わかよたれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこえて、あさきゆめみしゑひもせす、

以呂波發音訓傳

(いろ)はと()()より、(つね)ならんと()(まで)は、衆生(しゆふじやう)流轉(りゆうてん)()ふ、有爲(うゐ)奧山(おくやま)()ふより(ゑひ)もせずに(いた)(まで)は、衆生(しゆうじやう)還滅(くわんめつ)成佛(じやうぶつ)()ふ、()れば以呂波(いろは)注解(ちうかい)(いふ)京者(きやうは)涅槃(ねはん)常住(じやぢゆう)()(とに)(むかふを)(いひ)有爲(うゐの)奧山(おくやま)今日(けふ)越者(こえては)歸法(きはふ)()都也(となり)(あさき)夢不見(ゆめみず)()安住(あんぢゆう)法性(はふしやう)()都也(となり)

 (さら)()物語(ものがたり)英文(えいぶん)にて(しる)さる。
大和(やまとの)(くに)吉野山(よしのやま)(おく)に、大峰(おほみね)(しよう)する(やま)あり、(えん)行者(ぎやうじや)(まつ)る、(かれ)降世後(かうせいご)(およ)そ七百二十年頃(ねんころ)()したる(ひと)にして、山伏宗(やまぶししう)開山(かいざん)なり、(かれ)偶像(ぐうぞう)絶壁(ぜつぺき)洞窟内(どうくつない)にありて、(かれ)(みづか)安置(あんち)したるものなりと(つた)へらる、(およ)山伏(やまぶし)たらんと(ほつ)するものは、()(その)(ぞう)(はい)せざるべからず、(しか)して(これ)(はい)せんと(ほつ)せば、絶壁(ぜつぺき)(かゝ)れる(てつ)(くさり)()りて、 洞窟内(どうくつない)(くだ)らざるべからずと()ふ、(とき)には絶壁(ぜつぺき)頂上(ちやうじやう)()し、(かしら)突出(とつしゆつ)してのみ禮拜(れいはい)(さゝ)くるものあり、かゝる場合(ばあひ)には、其人(そのひと)(かは)りて()(もの)洞窟内(どうくつない)(くだ)らしめざるべからず、(しか)して彼等(かれら)(つね)山伏(やまぶし)なる先達(せんだつ)(みちび)かれざるべからざるなり、()()普通(ふつう)參詣者(さんけいしや)にして、山伏(やまぶし)ならざる(とき)は、頂上(ちやうじやう)()先達(せんだつ)なる山伏(やまぶし)をして、(その)(あし)()たしめ、(その)(かしら)絶壁(ぜつぺき)突出(とつしゆつ)(もつ)洞窟内(どうくつない)凝視(ぎよし)するのみ、 其時(そのとき)先達(せんだつ)(かれ)()ふて(いは)く、(なんじ)將來(しやうらい)(ぜん)(おこな)ふや、父母(ふぼ)孝行(かうかう)なるや、(なんぢ)(こゝろ)(あらた)むるや、(しか)らずんば絶壁(ぜつぺき)より(なんじ)放棄(はうき)すべしと、(こゝ)興味(きやうみ)(ふか)き一(れい)あり、先達(せんだつ)以上(いじやう)(ごと)()ひたる(とき)或者(あるもの)(われ)先達(せんだつ)(げん)(したが)ふてかゝる約束(やくそく)をなす(あた)はずと(こた)へたりしかば、 (かれ)(つひ)先達(せんだつ)のために放棄(はうき)せられたりき、(いま)(かれ)身體(しんたい)は千(ぢやう)深谿(しんこく)(たつ)して、(まさ)粉碎(ふんさい)せんとする(とき)俄然(がぜん)大天狗(だいてんぐ)顯現(あらは)れて(かれ)(つか)み、(かれ)安全(あんぜん)頂上(ちやうじやう)(たづさ)へたりき、天狗(てんぐ)()へらく(かれ)先達(せんだつ)(めい)(おう)ずることを(こば)みたるは、專心(せんしん)()(もつ)父母(ふぼ)にのみ孝順(かうじゆん)ならんことを、(へう)する行爲(かうい)(ほか)ならざるなりと
 以上(いじやう)()だ一(れい)()ぎぬ。其他(そのた)俗神道(ぞくじんだう)純神道(じゆんじんだう)佛敎(ぶつけう)(とう)(くわん)する記録(きろく)(おほ)くあるが、(くは)しく記述(きじゆつ)することはできぬ。(えう)するに、以上(いじやう)事實(じじつ)により、()日本語(にほんご)(およ)日本(にほん)研究(けんきう)するために、如何(いか)周到(しうたう)なる注意(ちゆうい)(はら)はれたるか、如何(いか)(その)(らう)多大(ただい)であったかを推知(すゐち)することができる。

二、飜譯 

 長崎(ながさき)在留(ざいりう)(やく)年間(ねんかん)は、(ほと)んど直接(ちよくせつ)傳道(でんだう)をなすの餘地(よち)がなかつたから、監督(かんとく)(もつぱ)日本語(にほんご)研究(けんきう)飜譯(ほんやく)事業(じげふ)從事(じゆうじ)せられた。()書信(しよしん)によれば、文久(ぶんきう)元年(ぐわんねん)飜譯(ほんやく)事業(じげふ)着手(ちやくしゆ)し、主禱文(しゆたうぶん)使徒信經(しとしんぎやう)、十(かい)(およ)小兒(せうに)のための小册子(せうさつし)和譯(わやく)し、(つヾ)いて馬太(またい)福音書(ふくいんしよ)數章(すうしやう)祈禱書(きたうしよ)の一部分(ぶぶん)飜譯(ほんやく)された。()はまた(その)(ころ)和英辭書(わえいじしよ)編輯(へんしう)着手(ちやくしゆ)せられしと()へ、()記録(きろく)(とも)(その)原稿(げんかう)殘存(ざんそん)してをるが、(これ)完成(くわんせい)せられなかつた。(おも)ふに(これ)は、支那(しな)日本監督(にほんかんとく)(にん)ぜられ、敎務(けうむ)多端(たたん)になつた(ため)放棄(はうき)せられたか、(あるひ)はヘボン()がかゝる事業(じげふ)着手(ちやくしゆ)せられたと()いて、中止(ちゆうし)せらるゝに(いた)つたのであらう。明治(めいぢ)(ねん)には、祈禱書(きたうしよ)(ちゆう)早晩禱(さうばんたう)嘆願(たんぐわん)特禱(とくたう)洗禮式文(せんれいしきぶん)信徒(しんと)按手式文(あんしゆしきぶん)(とう)飜譯(ほんやく)され、大阪(おほさか)()ける(だい)(くわい)洗禮式(せんれいしき)執行(しつかう)(とき)は、和譯(わやく)洗禮式文(せんれいしきぶん)使用(しよう)せられた。(また)其頃(そのころ)聖歌(せいか)Rock of Ages「よゝいわわれて」を(やく)し、(つゞ)いて「われをばたのまじ」、「なみかせのあらき」、「われのかみに」、「十字架(じか)にかゝりし」(とう)(やく)された。
 明治(めいぢ)十一(ねん)英米(えいべい)聖公會(せいこうくわい)宣敎師(せんけうし)(およ)香港(ホンコン)のバーデン監督(かんとく)と、ウイリアムス監督(かんとく)とは東京(とうきやう)(くわい)し、(すで)監督(かんとく)飜譯(ほんやく)された早禱(さうたう)晩禱(ばんたう)嘆願(たんぐわん)日本語(にほんご)祈禱文(きたうぶん)採用(さいよう)することを承認(しようにん)し、()聖餐式(せいさんしき)先禮式(せんれいしき)堅信禮式(けんしんれいしき)公會問答(こうくわいもんだふ)飜譯(ほんやく)出版(しゆつぱん)する()委員(ゐゐん)選定(せんてい)した。明治(めいぢ)十五(ねん)には、監督(かんとく)祈禱書(きたうしよ)大部分(だいぶぶん)と、()飜譯(ほんやく)委員(ゐゐん)協力(けふりよく)し、詩篇(しへん)大部分(だいぶぶん)飜譯(ほんやく)された。明治(めいぢ)十六(ねん)(べい)ミツションに(ぞく)する(だい)一の邦人聖職(ほうじんせいしよく)按手式(あんしゆしき)には、監督(かんとく)(やく)された會吏(くわいり)聖別式文(せいべつしきぶん)(もち)ひられた。
 ()記録中(きろくちゆう)に、主禱文(しゆたうぶん)使徒信經(しとしんぎやう)使徒信經(しとしんぎやう)問答(もんだふ)壯年先禮式(さうねんせんれいしき)(とう)邦語譯(はうごやく)記載(きさい)されてあるが、之等(これら)のものを()るに、其文體(そのぶんたい)古風(こふう)にして術語(じゆつご)(いま)(さだま)らず、飜譯術(ほんやくじゆつ)幼稚(えうち)なると、長崎(ながさき)時代(じだい)記録(きろく)(とも)記載(きさい)しあるより(かんが)ふるに、其時代(そのじだい)(さく)なるは(うたが)ふべからざるものであるが、()良好(りやうかう)なる飜譯(ほんやく)()んと、一方(ひとかた)ならぬ苦心(くしん)した(こと)は、()記載(きさい)する(ごと)く、主禱文(しゆたうぶん)種々(しゆじゆ)なる邦語譯(はうごやく)あることを(もつ)()らるゝのである。 (じつ)()邦語敎師(はうごけうし)相手(あひて)として、かゝる難事業(なんじげふ)()られたる(その)困難(こんなん)想像(さうぞう)するに(あまり)あることである。以下(いか)原文(げんぶん)のまゝに記載(きさい)すれば、 テンニ、マシマス(イマス)、ワガチヽヨ、アナタノオンナハ、セイ()ナシタマヘ(ナサリマセ)、アナタノクニハ、オイデナサレマセ、アナタノゴシユイハ、テンノヤウニ(ゴトク)、チニモオコナハレヨ、ワレラ(ワタクシドモ)ガモチユルダケノ、シヨクモツヲ、コンニチ、ワレラ(ワタクシドモ)ニ、アタヘタマヘ(クダサリマセ)ワレラ(ワタクシドモ)ニ、ツミオフヒトヲ、ワレラ(ワタクシドモ)カユルスヤウニ、ワレラガ(ワタクシドモガ)オウツミモ、ワレラ(ワタクシドモ)ユルシタマヘ(オユルシクダサリマセ)ワレラ(ワタクシドモ)ヲコヽロミノウチニ、イザナヒタマフナ(ヲミチビチナサリマスナ)、モツトモ、ワレラヲ(ワタクシドモヲ)、アクヨリスクヒタマヘ(オスクヒナサリマセ)、クニヤ、イキホヒヤ、エイクワナド、ミナヨゝ、アナタニツイテオルニヨツテ。
 (てん)吾父(わがちゝ)アナタノ()(せい)トナリタマヘ、アナタノクニ、(きた)(たま)ヘ、アナタノ旨意(しい)(てん)(おこなは)ルヽガ(ごと)ク、()ニモ(おこなは)レヨ、我等(われら)(もち)ユルダケノ(かて)ヲ、今日(こんにち)我等(われら)(あた)(たま)ヘ、我等(われら)(つみ)()(ひと)ヲ、我等(われら)(ゆる)(ごと)ク、我等(われら)(おふ)(つみ)ヲモ(ゆる)(たま)へ、我等(われら)(まどひ)(うち)(みちび)(たま)フナ、(すなはち)我等(われら)(あく)ヨリ(すく)(たま)へ、(くに)(いきほひ)モ、榮光(えいくわう)モ、アナタノモノデヤルニヨツテナリ。
 (てん)(ましま)(わが)(ちゝ)(きみ)御名(おんな)(せい)となし(たま)へ、(きみ)(くに)(きた)(たま)へ、(きみ)()(てん)(おな)じく()にも(おこな)はれよかし、我等(われら)(もち)ゆる(ところ)(かて)今日(こんにち)我等(われら)(さづ)(たま)へ、我等(われら)罪負(つみお)(ひと)を、我等(われら)(ゆる)(ごと)く、我等(われら)()(つみ)をも(ゆる)(たま)へ、我等(われら)(こゝろみ)(うち)(みちび)(たま)ふべからず、(しか)りと(いえども)我等(われら)惡事(あくじ)より(すく)(たま)
 (くに)(いきほひ)ひ、榮光(えいくわう)(みな)代々(だいだい)世々(よゝ)(きみ)(ぞく)するに(よつ)てなり。
 以上(いじやう)()記録中(きろくちゆう)記載(きさい)されたるものであるが、(ついで)なれば()()()()れる()譯文(やくぶん)掲載(けいさい)すれば、
 (てん)にましますわれらの(ちゝ)よ、ねがはくはみ()をあがめさせたまへ、み(くに)をちがづかせたまへ、みこころを(てん)になすごとく、()にもなさしめ(たま)へ、われらの日々(ひゞ)(かて)今日(こんにち)もさづけたまへ、われらが(ひと)のつみをゆるすごとく、われらのつみをもゆるしたまへ、われらをこゝろみらるゝことに、みちびきたまはず、なほすくひてあくよりいだしたまへ、(くに)(ちから)威光(ゐくわう)はあなたのかぎりなくもちたまふものなればなり亞孟(あゝめん)
 (この)譯文(やくぶん)何年頃(なんねんごろ)飜譯(ほんやく)なるや、明了(めいれう)ならざれど、(いま)活版術(くわんぱんじゆつ)(おこな)はれざりし(ころ)のものなるが()めにや、木版(もくはん)にて印刷(いんさつ)された。また明治(めいぢ)(ねん)(ぐわつ)東京(とうきやう)(ふか)(ふかゞは)西元町(にしもとまち)三一敎會(けうくわい)現今(げんこん)眞光敎會(しんくわうけうくわい)淺草(あさくさ)東仲町(とうなかちやう)講義所(かうぎしよ)(ため)に、活版(くわつぱん)にて印刷(いんさつ)せられたる左記(さき)譯文(やくぶん)があつた。

主禱文(しゆたうぶん)

(てん)にましますわれらの(ちち)よ、(しゆ)聖名(みな)(せい)となさしめ(たま)へ、(しゆ)御國(みくに)をきたらせ(たま)へ、(しゆ)聖旨(みこゝろ)(てん)にをこなわるゝごとく、()にもをこなわせ(たま)へ、われらが日用(にちえう)(かて)今日(こんにち)もあたへ(たま)へ、(おのれ)(つみ)なす(ひと)をわれら(ゆる)(ごと)く、われらの(つみ)をもゆるし(たま)へ、われらを(こゝろ)みらるゝことに(みちび)(たま)ふなく、(かへつ)(あく)よりすくひ(たま)へ、(くに)權威(いきほひ)榮光(かゞやき)世々(よゝ)(しゆ)(もの)なればなり、
あゝめん。

 以上(いじやう)()主禱文(しゆたうぶん)(もつ)て、監督(かんとく)飜譯(ほんやく)の一(れい)(しめ)したのであるが、(もつ)()飜譯(ほんやく)事業(じげふ)如何(いか)苦心(くしん)せられたるかを、(うかゞ)ふことができる。
 ()記載(きさい)するものは、フツベツキ()より、監督(かんとく)(おく)られたる書簡(しよかん)にして、()遺書中(ゐしよちゆう)より發見(はつけん)したるものである。フルベツキ()は、安政(あんせい)(ねん)十一(ぐわつ)長崎(ながさき)來着(らいちやく)し、明治(めいぢ)(ねん)まで同地(どうち)滯留(たいりう)したれば、リギンス()歸國(きこく)(のち)は、長崎(ながさき)在留(ざいりう)數年間(すうねんかん)監督(かんとく)(ゆゐ)一の(とも)は、フルベツキ()であつた。されば兩氏(りやうし)(あひだ)友情(いうじやう)(じつ)親密(しんみつ)であつた。フルベツキ()は、亞米利加(あめりか)改革敎會(かいかくけうくわい)宣敎師(せんけうし)なりしに(かゝ)はらず、()子女等(しぢよら)聖公會(せいこうくわい)(ぞく)し、ミス、エマ、フルベツキ、ミスター、チャニング、エム、フルベツキの二(にん)は、監督(かんとく)より信徒按手式(しんとあんしゆしき)(りやう)した。()書簡(しよかん)兩師(りやうし)親密(しんみつ)なる友情(いうじやう)の一(たん)(しめ)すと(とも)に、現今(げんこん)吾人(ごじん)使用(しよう)する舊約詩篇(きうやくしへん)は、兩師(りやうし)協力(けふりやく)にて飜譯(ほんやく)せられたるものにて、(これ)がために如何(いか)兩師(りやうし)苦心(くしん)せられたるかを(うかゞ)ふことを()べく、()()吾人(ごじん)にしてかゝる飜譯(ほんやく)困難(こんなん)(さつ)し、(もつ)和譯(わやく)聖書(せいしよ)(たい)する(とき)は、先輩(せんぱい)諸氏(しよし)(らう)(たい)し、(じつ)感謝(かんしや)(ねん)(きん)(がた)きを(おぼ)ゆるのである。

(わが)親愛(しんあい)する監督(かんとく)
 小生(せうせい)希伯來(へぶる)原文(げんぶん)(ごと)飜譯(ほんやく)したる()(だい)三十九(へん)を、御受領(ごじゆりやう)あらんことを()ふ。小生(せうせい)()諸點(しよてん)(のぞ)くの(ほか)は、(すで)貴君(きくん)飜譯(ほんやく)せられたるものに、一()せしめんことを(つと)申候(まをしそろ)(もと)より貴君(きくん)(傍線==)()()ゆるに(しゆ)をもて(3文字に二重傍線======)()()ゆるににて(2文字に二重傍線====)しめ(2文字に二重傍線====)()ゆるにさせ(2文字に二重傍線====)使用(しよう)せられたることを了解(れうかい)致申候(いたしまをしそろ)(しか)れども多分(たぶん)貴君(きくん)(のぞ)ませらるゝ(ごと)き、()變更(へんかう)(いた)され申候(まをしそろ)(とき)には、何卒(なにとぞ)(のち)御通知(ごつうち)被下度(くだされたく)奉願候(ねがひたてまつりそろ)
 末節(まつせつ)(くわん)小生(せうせい)典據(てんきよ)とすべきものは、(ことごと)く"Look away from me"と(やく)するを至當(したう)(ごと)(かい)せしめ申候(まをしそろ)(しか)らば「(われ)不問(みすぐし)にし(たま)へ」(使()十七○三十)と、()()よりも(ちか)意義(いぎ)ある()發見(はつけん)し、(もし)くは(かんが)ふることさへ出來不申候(できまをさずそろ)(われ)不問(みすぐし)(たま)へば、(われ)不問(みすぐし)にし(たま)へと(こと)なり、(かつ)かくしては適合(てきがふ)せぬ(やう)相考(あひかんが)申候(まをしそろ)此節(このせつ)(しん)意義(いぎ)(くわん)し、小生(せうせい)()十三○八を回想(くわいさう)(いたし)申候(まをしそろ)、"Lord let it alone(貴君(きくん)用語(ようご))This year also"かく埋葬式文(まいさうしきぶん)にも使用(しよう)有之候(これありそろ)不問(みすぐし)といふ()小生(せうせい)には(うる)はしく被感(かんぜられ)申候(まをしそろ)(いかり)(をこりて)、(もし)くは(いか)りて、(もし)くは(にら)(とう)()を、「むかひ(たま)(なか)れ」の(まへ)插入(さうにふ)せば、(よろ)しからんと奉在候(ぞんじたてまつりそろ)。千八百八十一(ねん)(ぐわつ)三十一(にち)
信實(しんじつ)なる(とも)
     シ、エフ、フルベツキ』

三、著述 

 監督(かんとく)遺書(ゐしよ)(すう)(くわん)は、現今(げんこん)類別(るゐべつ)整理(せいり)されて、京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)監督(かんとく)事務所(じむしよ)(ない)圖書室(としよしつ)保存(ほぞん)されてあるが、(いづ)れも時代(じだい)大著述(だいちよじゆつ)にして珍重(ちんちやう)(しよ)(あらざ)るはない。
()修養(しうやう)(ふか)薀蓄(うんちく)學者(がくしや)なりしことか推知(すゐち)さるゝのである。()(こと)古典(こてん)精通(せいつう)したさうである。監督(かんとく)讀書家(どくしよか)であつた。旅行中(りよかうちゆう)巡回(じゆんくわい)()られた(とき)も、餘暇(よか)さへあれば讀書(どくしよ)(たのし)まれた。監督(かんとく)單身(たんしん)孤獨(こどく)生活(せいくわつ)(おく)らるゝので、(さだ)めて寂寥(せきれう)であらうと、時々(ときどき)來訪者(らいはうしや)は、監督(かんとく)さんお(ひと)りで(さび)しう御座(ござ)りませうと(たづ)ぬると、監督(かんとく)は、イヽエ(わたし)ちつとも(さび)しくありません、(おほ)くの友人(いうじん)があります。(その)友人(いうじん)(わたし)より信仰(しんかう)(あつ)(とく)(たか)人々(ひとびと)ですといふ。(その)友人(いうじん)何處(どこ)()ますかと()へば、監督(かんとく)微笑(ほゝゑみ)ながら書棚(しよだな)書籍(しよせき)(ゆび)さし、(あれ)はジヨン、クリソストム、(これ)はアウガスチン、彼方(あちら)はフランシス、此方(こちら)はバジルですと、(こた)へらるゝが(つね)であつた。
 監督(かんとく)薀蓄(うんちく)學者(がくしや)であつたが、(その)學識(がくしき)思想(しさう)文筆(ぶんぴつ)(もつ)發表(はつぺう)し、社會(しやくわい)人心(じんしん)指導(しだう)するやうな(たち)(ひと)ではなかつた。それ(ゆゑ)監督(かんとく)にはこれぞといふ著述(ちよじゆつ)はなかつた。(わづか)監督(かんとく)著述(ちよじゆつ)として(つたは)つて()るものは、(いづ)れも傳道上(でんだうじやう)必要(ひつえう)(せま)り、()(あた)はずして(ふで)()られたものであつた。それも自己(じこ)()社會(しやくわい)()らるゝを(ほつ)しなかつたから、一として監督(かんとく)署名(しよめい)がない。卷頭(くわんとう)序文(じよぶん)には著者(ちよしや)(しる)すと(かい)てあるが、(その)著者(ちよしや)()何處(いづこ)にも(しる)してない。監督(かんとく)著述(ちやじゆつ)せられたるものは()(しよ)である。
 「聖餐(せいさん)(とも)」、「聖書(せいしよ)讀法(どくはふ)明治(めいぢ)廿五六(ねん)出版(しゆつぱん)されたもので、前者(ぜんしや)聖餐式(せいさんしき)(あづ)かる(もの)靈的(れいてき)準備(じゆんび)()かれ、後者(こうしや)聖書(せいしよ)()(もの)心得(こゝろえ)()きたるものである。(いづ)れも反覆(はんぷく)熟讀(じゆくどく)すべき敬虔(けいけん)なる(しよ)にして、()篤信(とくしん)高德(かうとく)(しの)ばしめ、(その)警咳(けいがい)(せつ)する(おもひ)あらしむ。(この)兩書(りやうしよ)現今(げんこん)は、(ほとん)絶版(ぜつぱん)のやうであるが遺憾(ゐかん)(こと)である。
 「使徒信經(しとしんぎやう)問答(もんだふ)」、「十誡問答(かいもんだふ)」、「主禱(しゆたう)問答(もんだふ)」、「洗禮問答(せんれいもんだう)」、「堅信禮(けんしんれい)問答(もんだふ)」、(いづ)れも洗禮(せんれい)堅信禮(けんしんれい)志願者(しぐわんしや)準備(じゆんび)(もち)ひるために、問答體(もんだふてい)にて説明(せつめい)せしものである。()()最初(さいしよ)出版(しゆつぱん)は、何年頃(なんねんごろ)なるか(あきらか)ならざれど、(すで)文久(ぶんきう)年間(ねんかん)に、主禱文(しゆたうぶん)使徒信經(しとしんぎやう)(とう)飜譯(ほんやく)着手(ちやくしゆ)せられ、明治(めいぢ)(ねん)には祈禱書(きたうしよ)(ちゆう)必要(ひつえう)なる部分(ぶぶん)飜譯(ほんやく)されたれば、餘程(よほど)(はや)くから手書(しゆしよ)()つて、志願者(しぐわんしや)準備(じゆんび)(もち)ひられ、其後(そのご)木版(もくはん)にて出版(しゆつぱん)されたものが、幾度(いくたび)訂正(ていせい)されて現形(げんけい)()つて出版(しゆつぱん)されたのである。
 「敎會(けうくわい)歴史問答(れきしもんだふ)上中下(じやうちうげ)(つゞ)き六(さつ)より()り、初代(しよだい)(ならび)中世敎會(ちゆうせいけうくわい)から、英國(えいこく)聖公會(せいこうくわい)米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)それより日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)初期(しよき)(いた)るまでの歴史(れきし)問答體(もんだふてい)(しる)したるもので、()晩年(ばんねん)著述(ちよじゆつ)にして、明治(めいぢ)四十(ねん)十二(ぐわつ)出版(しゆつぱん)された。


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