ポーツマス艦の一士官の通信が、米國聖公會傳道會社機關紙上に發表せらるゝや、監督ブーン師の豫期せし如く大いに米國聖公會の日本に對する注意を喚起し、日本傳道の責務を深く感ぜしめた。此書簡發表後直に、紐育聖馬可敎會は劈頭第一に、日本最初の宣敎師俸給の爲に、金貳百弗を寄附した。是れ日本傳道の爲に獻げられたる第一の初穗である。之に續いて他地方からも同目的の爲に、同額の獻金があつた。
千八百五十八年(安政五年)九月、上海宣敎師長老サイル氏は、病氣靜養の爲に渡來し、暫らく我國に滯留せられたるが、歸任後本國 に長文の通信を送り、詳細に日本の事情を記述し最後に直ちに此國の傳道に着手するは、我が公會 の急務なりと斷言した。又た支那の米國公使館の書記通譯官なる博士ウイリヤムス氏は、千八百五十八年九月、長崎に在留中、長老サイル氏に書を寄せ、日本傳道 に對し意見を開陳せられた。此兩氏は日本に宣敎師を派遣するの必要を認め、米國聖公會、長老敎會、リフオルムト敎會の傳道會社に宣敎師派遣を請求した。而して是等の諸氏の日本傳道の意見は何れも米國聖公會傳道會社機關紙上に發表せられたれば、米國人士の日本傳道に對する興味を深からしめ、諸方面より日本に宣敎師を派遣すべしとの聲が起るに至つた。此くして日本傳道の時期既に熟し、唯だ要するものは、適當なる人物であつた。
千八百五十九年二月、米國聖公會傳道會社外國傳道委員は、愈愈日本傳道事業を開始し、第一の宣敎師として、リギンス、ウイリヤムス兩氏を派遣する事を決し、左の趣意書及び決議文を發表せられた。
『米國聖公會外國傳道委員は、恭しく其本分を感じ、茲に神の佑助に依りて、日本帝國に傳道事業を開始するに決したることを、敎職及び信徒の諸兄弟に告ぐ。
柳々日本帝國が他の諸國民と交親を開きたりとの報道は、全米國を通じて其人民の心に深き印象を與へ、日本傳道を開始することを賛同するの意向、一般米國人の中に生じたることは、本委員の信ずる所なり。本委員は日本に關する傳道計畫を明かにする爲めに、左の趣旨を發表するに決したり。
日本傳道開始の方針
外國傳道委員中の敎職者より成れる特別委員は、日本帝國に傳道を開くことを可とせる外國傳道委員の決議を受け、該傳道の計畫を明細に報告せんが爲め、茲にブーン監督の協商を經て、左の報告を發表することを、全員一致を以て可決せり。
一、日本に於て協働勤務せしめんか爲に、少くとも二人の宣敎師を任命し、而して日本と支那とは國語の相近きを以て、支那語を領解する人は、日本に於て大なる便利を感ずべく、且つ此二國語を對照したる書籍の既に出版せらるゝあり、宣敎的生活の習慣は實地の經驗によりて、初めて得らるべきものにして、外國人が全然新なる傳導地に於て、斯る習慣及經驗を得るには、多大の時間を要すべきを思ひ、且つ速に宣敎事業の効果を收めんと欲せば、直ちに之を開始するを必要とし、而して支那に於て既に其習慣及び宣敎的訓練を得たる人には、此新にして主要なる働きに特に適當なることを思ひ、茲にリギンス及ウイリヤムスの兩氏に任命して、日本に新傳道を開始するの勞を托するの正當なるを認め、而して此新ミツシヨンは常に支那に於けるミツシヨンと、密接に連結すべく、而して少くとも當分の間は、支那ミツシヨンの監督の管轄に屬すべきものとし、外國傳道特別委員は差詰め日本宣敎事業の綱領として、左の決議を提出することに、全員一致を以て決したり。
決議
一、日本に於ける第一の傳道本據を長崎となす事
二、現今支那ミツシヨンに屬するジヨン、リギンス及シ、エム、ウイリヤムス兩師を、日本宣敎師に任命し、該國に移り外國傳道委員會の指揮を受領の後、直に其宣敎を開始せんことを求むる事
三、前記兩師の外、更に一名の宣敎醫師を任命するを可とし、本委員よりせる出版物に廣告して適當の資格のある醫師一名を募る事
四、日本に於けるミツシヨンは、正當なる公會の權威によりて、他の方法の命令せらるゝまで、支那傳道監督の管轄に屬する事
外國傳道委員は、特別委員の此報告を受け、全員一致を以て、其決議を採用したり。
此決議を採用するに方り、外國傳道委員は、日本に於ける合衆國の外交代表者、タウンセント、ハリス閣下が、日本との賢明なる交渉に成功して、基督敎の爲に最も有益なる助力を與へ、且本委員が採用したる宣敎師及代表者に對して、厚意を示されたることに對し感謝の意を表す。同時に神に對し特に感謝するところなくんばある可らず。』
外國傳道委員は、千八百五十九年二月十四日を以て、日本に對する傳道事業を成立せしむる處置を取り、直ちに前記趣意書及決議文を臨時印刷物を以て發表し、全公會に配布した、此印刷物には千八百五十八年九月、我國に渡來せられたるサイル氏の、日本訪問物語をも載せられた。其後此印刷物に次で、更に又一個特別の報告書を發表したるが、廣く全公會の歡迎を受け、日本傳道事業の爲に大に人意を強くした。
更に外國傳道委員は、此新事業に對して一層の興味を喚起せんが爲に、一人の代表者を派し、ブーン監督と共にフイラデルフイア市に至らしめ、二月二十日日曜日に、該市の諸敎會に於て特に禮拜を行ひ、信施金を集め、又同二十一日月曜日の夕、聖路加敎會に於て、外國傳道會を開催したるに、多數の敎職及信徒は出席した。而して日本傳道の公告に酬はれたる反響は、最も人意を強ふするに足るものがあつた。此日本傳道の開始は到る處に歡喜と滿足を表せられ、之に對する寄附金の如きは、既に數千弗の多きに上り、遠きはアイオア及オレゴン州の僻地に於ける少年よりすらも、此事業の爲に獻金を送り來つた。
外國傳道委員は、リギンス、及びウイリアムス兩師に對し、同時に日本第壹の宣敎師たる任命を與へられたるが、當時リギンス氏は病氣療養中の爲に長崎に在留したれば、直ちに其任務に就いた。ウイリアムス氏は、上海に在て此任命に接したるが、當時上海には働き人不足なりしかば、同地の敎務は師をして、直に此新任地に來る能はざらしめた。されば來着の順序よりすれば、リギンス師は日本先着の新敎宣敎師である。是より先、兩師は倶に支那常熟に定住し、該地方の傳道に從事しつゝあつたが、上海宣敎師ネルソン氏歸國に就きウイリヤムス氏は、其後任者として上海に轉任し、未だ幾何ならずして、日本傳道の新任命に接したのである。リギンス師は、ウイリアムス師轉任後、新に上海より來れる執事某氏を補助者として常熟に留り働きけるが、千八百五十九年四月五日、意外の禍に酷く健康を害せられ、醫師の勸告により、同年五月二日長崎に轉地療養の爲に來り、同地に在留中此新任命に接したのである。當時の事業は左のリギンス師の書信に詳細に記述されてある。此書信は千八百五十九年五月廿六日、師が新任命の通告に接したる日に認められたるものである。
『外國傳道委員は、ウイリアムス氏及小生に日本に派遣する宣敎師に任命せられたる旨、御通告の貴状は、小生既に此國に在りて受領したるを知り給はゞ、貴下に於ても定めて御驚愕なさるゝ事と存候、意外の攝理に導かれて、小生は條約の規定に據り、當地に住居する權を要求し能ふ時期となりしよりも、二ケ月以前より此地に滯留いたし居候。事の次第は左に詳細に可申上候。
過去十八ケ月間支那在任中、小生は同國中部及南部に流行する熱病に屢ば冒され、太甚しく惱み候ひしが、本年二、三月間に健康全く害ひ、最早や傳道の任務を盡す能はざるに至りたれば、神の祝福により健康の回復を希望し、一時支那を去り他に轉地療養するは、爲す可き本文と存じ申候。かく存じ居り候處圖らずも意外の事件出來し、小生の支那出立を急がしめ申候。
四月五日は常熟の人民の或る者等が、父母に尊敬の意を表示する一種の行列を擧行する日に候。此行列は識者間には評判宜しからず、一人も之に加はるものは無之、下級社會の人々のみにより組織せらるゝものに候。識者は此行列を甚だ嘲弄し、此は朝飯前に父母を打擲し惡口し、朝飯後に父母を尊敬するとて行列に練り行く者等の組織するものなりと申居候 。
此行列は小生等の住居する家を通過いたす事に候が、昨年はウィリアムス氏と小生は彼等の亂暴なる行爲あらんことを懸念し、日暮るゝまで外出し家に在らず候ひしが、最早や一年有餘も該市に住居いたしたる事とて、多くの人々少くとも市の西部の凡ての人々に能く知られ居り候へば、本年は家に止るも氣遣なかるべく、其上説敎し類書の配布をも試み得らるべしと存じ、大膽に構へ居候。
乍併此は無謀なりし事を小生は忽ち悔恨するに至り申候。そは夥しき無制裁の群衆は押し寄せ來り、執事某氏は説敎を爲す能はず、類書の配布など迚も思ひもよらぬ喧擾を極め候。或る者は氏の手より類書を奪ひ取り、また一人は氏が書籍を與へぬとて毆打致し候。
小生等は必死の力を盡し非常の困難を以て、辛ふじて終(つひ)に群衆(ぐんしゆう)を戸外に追出し、此上は日中は何人も家に入れまじと決心いたし候。併ながら夕刻に至り群衆は再び押し寄せ來り、家に亂入せんとせしゆへ、小生及邦語敎師と僕は防禦に力を盡したるに、群衆中の兇惡の徒は暴れ狂いて、東端の輕き戸を破壞し初め候。此時小生は彼等の暴行を訴ふべく、市長の許に至らんと戸外に出でしに、群衆の首魁と二人の兇漢は追跡し來り、小生を捕へて亂打し踏蹴り最も殘忍なる暴行を加へ申候。同時に他の者は邦語敎師及傳道師某氏の室に入り、物品を掠奪いたし候。小生を保護せんとしたる我等の學校の敎員及隣家の二人と、彼等の手より小生を救ひ出さんとしたる小生の識らざる他の三人の者も、また酷く亂打せられ候。小生は彼等が殘酷なる暴行を我が身に逞ふしつゝある間、將に迫りつゝある暴死より救はるゝやう祈念を凝し居候。而して小生が祈禱を終るや否や、不思議にも彼等の手は弛み、小生を亂打することを止めしのみならず、彌次馬連の卑怯なる打擲より小生を保護するに至りしは、大能なる神の御祐助と今も猶ほ感謝讚美の情念を以て、茲に記述する事に候(中略)
かゝる暴害の結果は、唯さへ衰弱せる小生を一層衰弱せしめ候。此事より五日後、該地に到着せる兄弟ウイリアムス氏と倶に、小生は上海に歸り申候。同勞の兄弟等は、ドクトル、マクゴーン氏の診斷を仰ぎ、其意見に從ひ身を處置すべく切望せられ候。氏は近頃日本より歸來したるが小生にも日本に轉地靜養するやう勸告せられ候。氏の語る所によれば、支那に於て小生を太甚しく惱したる沼癘氣に感染する如き事は、日本に於ては全く無之由に候。由て數日後米國帆艇メリーラントに乘じて長崎に向て出發し、五月二日月曜日當港内に投錨いたし申候。
小生等は初め、幕府の高官橫山氏に訪はれ、其後尚ほ高位の上官田中氏と、外國人に關する諸件を管理する官吏に訪はれ候。小生は此等諸官吏に日本に渡來したる意志を陳述し、小生の爲め陸上に一家を與へられんことを請願し、若し此事叶ひ而して小生の健康回復せば、日本諸官吏に英語を敎授いたすべしと約し申候。領事ジヨン、ジ、ウオルシユ君は當局者に小生の請願許容を促され、幕府の通譯官にして、英語研究を切望し、曩にドクトル、マクゴーン氏の在留中、氏に敎授せられたる人々も、小生の要請を許容さるゝやう幕吏に請願せられ候。かくて小生は數日間に、美はしき地位にある佳き家の一部を借受ることに成功するに至り申候。同時に數週間總ゆる手段を試みたれど、未だ家を得ざる商人等も有之、又た新條約實施までは到底見込なしとて、上海に退去したる人々も有之候。
メリーラントの後に當地に來着したる最初の船は小生に數通の書状を持來り候。而して小生が開封したる第一は、監督ブーン師の書簡と、此の國の宣敎師に任命せられたる事を通告せる貴状にて候。小生は貴状に接し以下の理由の爲め、神許し給はゞ、此地に在留するは小生の任務と確信仕候。一、小生の健康状態の快復に進みしこと、及び支那に於けるよりも、日本に於て神の祝福により健全なる健康を享受らるべければ。二、小生は日本に多大の興味を有すれば。三、此地に渡來以來の見聞により、此興味を益々深からしめたれば。四、日本傳道に對する止むに止まれぬ召命の感あれば。外國傳道委員の通告に接し、小生が日本の宣敎師に任命せられたる事は、神の召命なることを最早や信ぜざらんとするも能はざるに至り申候。』
斯くして常熟に於ける意外の禍は、日本最初の宣敎師の一人をして、其任命に先ちて早くも我國に來らしめ、而かも外國傳道委員が日本に於ける第壹の傳道地と選定したる其地に在りて、將來に準備を爲さしむるに至つたとは、奇しき神の攝理なるかな。