安政四年幕府の全權は、ハリスと條約を議了したる時に、此條約は翌五年三月五日を以て、双方全權記名調印し、批准は米國にて交換すべしと約したるが、該條約の議了せらるゝや親藩諸侯反對の意見を懷き、抗議紛々たりしかば、幕閣は、所詮之を朝廷に奏上し、勅許を得て之を令するに非ざるよりは、以て全國の士民をして開國の政を遵奉せしむること能はずと覺知し、安政四年十二月、目付津田近江守林大學頭を京都に遣し、條約勅許を請はしめた。
然るに京都に於ては、勤王論の激勵と幕府の無能とに乘じて、公卿浪士等禁裏を圍繞せる各階級の人は、後醍醐帝の昔を夢み武家政權の回收に心を碎けることとて、偏に幕府を窮境に追はんことを力めた。こゝを以て林津田兩使者は要領を得ずして歸東した。
斯かりしかは堀田閣老は、川路左衛門尉岩瀬肥後守其他の幕吏を從へて、安政五年二月西上し、公卿に會し百方陳辯したれども、三家以下列藩の公議を採つて具奏すべきの朝命に接し、同じく其要領を得ずして歸府した。然るにハリスは約を履て三月五日に江戸に來りたれば、幕閣は勅許なきが爲に調印の場合に至らず、堀田閣老歸府まで相待たれよとて日を送りし中に、堀田閣老は四月二十日に歸府し、ハリスに應接し、條約調印に付き人心不成合なれば調印延期ありたしと望み、後ち五月二日に至り、閣老連署の書を以て、愈々七月廿七日には相違なく調印すべしと約し、期日を延期した。
此間に條約調印の事と相關聯して、偶々將軍家繼嗣問題が起つた。閣老堀田は、京都に於て外交の件に於て失敗し了りたるが、朝議が外交拒絶に出づるもの決して其眞相にあらざるを覺り、こゝに公武の融和を謀らざれば、遂に其如何なる施設をも之を遂げ得ざるを看破し、一橋世子の朝野共に之に衆望を傾くるものあるを見、之によつて公武の乖離を防ぎ、諸侯の望を繋がんとし、新にこの事の爲に力を盡すに至つた。
かくて遂に西域の事は英俊人望年長の三件を以て撰定すべきの内勅は傳はり、一橋世子の事は一たび決するを得たるも、井伊直弼除ろに天下の形勢を觀じ、一橋世子派の意必ずしも其表面にあらはるゝ所以のみに止らざるを知り、奮然起て紀州世子派に力を添へ、安政五年四月廿五日入つて大老となるに及び、堀田等の計畫全く畫餅に歸し、以て政界は更に其形勢を一轉歩すべく進んだ。
この時に當り英佛聯合艦隊は淸国と戰ひ、北京城下に盟をなさしめたる餘威を以て、今や將に我國に來り、ハリスと議定したる所よりも、逈かに其上に強請すべしと聞えたれば、事急にして再び京都と交渉を重ぬるの効なきを見、井伊大老は決然斷じて曰く、今日の策たる我早く米國と條約を調印して、其條欵に限り以て彼に應ずるあるのみ、幕府の専斷する所により、勅許を待たざる罪を得ば、直弼乃ち一身を以て之に當らんと、遂に大英斷を以て條約調印を決し、下田奉行井上信濃守目付岩瀬肥後守を遣し、神奈川沖に繋泊せる米國軍艦上に於てハリスに會見し即時に日米條約調印を行はしめた。
時に安政五年六月十九日であった。
タウセント、ハリスは、安政三年七月、米國總領事兼全權公使として、我國に渡來したる以來、幾多の危險を冒し困難を忍び、外交不慣熟の幕府を開發誘導するに、毎事機會を捕へて失はなかつたが、茲に漸く日米條約調印を了するに至つた。彼は自國の爲に謀り、時に虚喝を交へたる事もあれど、内に満腔の懇情を有し、終始我に對して好意を表した。
彼は幕府の官吏に懇説して、開國貿易の利益を覺らしめ、幕府の最も親善なる味方として、常に最高顧問となり、條約文案の如き盡く彼の手に成れりといふ。彼は亞片禁止の必要を示して、我國をして永く此禍害を免れしめ、兇徒米國公使館書記ヒユースケンを襲殺するや、外國公使等激怒して、外人身命保護不行届を詰責せんと提議したるも、彼は我が内情の困難に同情し、幕府の誠意を諒して之を不問に付し、他國公使が國旗を撤して横濱に去りしときも、彼は獨り江戸に留り動かざりし如き、吾人は我が開國の初期内訌外難の時に當り、彼が我に與へし誠意と助力を特に記憶せねばならぬ。
彼は敏腕なる外交官にして、気品高き紳士であつた、而してまた忠實なる敎會員であった。彼は我國在留中も主日を嚴守した。或年の正月將軍家より、紀州産の蜜柑を入れたる大籠を賜りたるが、其日は日曜日なればとて之を受けず、翌月曜日に受取りたりといふ。彼が其日の日記に曰く、「余が日曜日を重ずるの嚴かなる規則は、タイクーン(將軍家)の爲にも改變すべからざる者なるを、日本人に示したるを喜ぶ」と。
彼はまた毎主日には必ず正格に、米國聖公會祈禱書に依りて禮拝を捧げた。彼は日記に書して曰く、「思ふに日本に於て、上帝に祈禱を捧ぐるため、此書を使用したるものは、予を以て嚆矢となすを得んか。此後聖別したる日本に於ける敎會に於て、同一なる祈禱書を以て祈禱を捧ぐる日は、幾年の後に來るべき乎」と。
而して彼は常に機會を窺ひ、幕府をして切支丹禁制の法令を撤去せしめ、信敎の自由を許諾せしめんと力めた。
既に日米和親通商條約調印を了し、極東帝國をして開國に一轉歩を進ましめ、故國の大使命を全ふしたる彼は、茲に至つて既往を顧みて感慨無量、感謝の念頻りに催されたであらう。宜なる哉、彼は、條約調印後八月一日日曜日、下田港に碇泊せる米艦ポウハタン、ミシシッピ兩艦の士官水兵を召集して、嚴肅なる禮拜式を擧行した。是れ實に我國に於ける最初の新敎公禮拜式にして、日本傳道史上に特筆すべきものである。此禮拜式に列したる米國海軍將官は、當時の光景及び感想を記して、左の如く報じた。
『八月一日日曜日は、ポウハタン及びミシシッピ兩艦の士官と水兵に取りて、忘る可からざる日に候。此兩艦は一兩日前江戸灣より歸來し、目下江戸を去る約七十哩なる下田の心地よき港に碇泊いたし居候。下田は人口壹萬もあらんかと見ゆる町にて、町外れに總領事タウセント、ハリス閣下の、亞米利加合衆國々旗は高く空中に翩々として飜り居り候。日本の地に曾て立てられざりし此國旗の稍や後方に、ハリス閣下の御住家あり、閣下の御住家は佛敎の殿堂にして、閣下の御住居に適用すべく、堂内の醜惡き佛像は悉皆取除かれ候。然ながら其等の佛像は、恰も住み慣れし殿堂を人手に渡すを甚く厭ふものゝ如く、尚ほ周圍の壁に傍ふて排列せられ、彼等を堂内より逐出して彼處に置き、かくも其神聖を瀆したる者等を、怖しくも逆鱗ましまして、睨まへ居り候。ハリス閣下が靜かに虚誇なく談判したる條約は、二人の幕府の全權來りて、我が代將軍の前にて記名調印し、我が艦上に於て首尾能く決了いたし候。かくて日本に於ける基督敎信仰自由の爲に、豫め謀るに至り候。此は何人に取りても感謝すべき事にて、特にハリス閣下の如き基督敎徒に取りては、感謝せざるべからざる事に候。されば閣下は御自身の家にて、米國々旗の下に、殆ど二世紀半以前、十萬の基督敎徒殉死者を天に上らしめたる迫害の火焰消へし後、こゝに第一の基督敎禮拜式を執行すべく願望致され候。我等は曾て少くも十萬の人口を有する長崎に在りしが、該市には敎會病院大學校數個の神學院もあり、其の一は貴族の子弟を聖職に敎育する爲の神學院にてありし由、基督敎は一度はかくも日本に於て、隆々の勢を極め候。昔は長崎市のみにても、四萬の敎徒ありし由に候。小官は、迫害の歴史家が殉敎者の山と稱せし刑場の聖地をも發見致し申候。又た其後千七百年頃、最後に殘れる敎徒が幽閉せられ、慘刑酷罰を加へられたる古き牢獄も、今猶ほ舊跡を留め居り候。小官は不幸にして其跡を訪ひ之を調査し、曾て其處に行はれたる悽慘なる光景、其怖ろしき記憶により一層物悽からしむる光景に臨んで、瞑想沈思し得ざりしは甚だ遺憾に候ひき。長崎を去る遠からぬ島原の町には、曾て堅固なる城廓あり、此處に迫害の爲に身を措く地無く、諸國諸所より集合したる敎徒三萬七千人有之候ひしが、一人も殘らず悉く攻め滅ぼされ申候。最後の殉敎者が、迫害の火焰の中に天に歸り候以來、今は幾星霜を經たれども、凡て是等の光景は我等の記憶にあり、殆んど我等の眼前に其状を呈し候。巡禮者がプリマスロツクに上陸したる頃、此戰慄すべき迫害は此處に行はれて、基督敎は盡滅いたし候。同時に彼處には基督敎移植せられ、爾來我國は文明の域に進み、富も力も名聲も宗敎も愈々發達致し候。然るに爾來長時代の間、三四千萬の住民を有する日本には、一度も基督敎再興に盡力せられたることなく、誰一人此地に進んで傳道を試みし者もなく、一の傳道會社も宣敎師を派遣せしこと無之候。然るに奇なるかな、我等米國民は今こゝに、基督敎が火と刄を以て撲滅せられし以來、最初の基督敎禮拜式、時機到來の劈頭第一の新敎禮拜式を偶像の殿堂に於て擧行するに至りしとは!
聖書は朗讀せられ、祈禱は捧げられ、説敎は宣べ傳へられ、而してシオンの讃美歌、美しく淸く歌はれ候。此讃美歌は、何れも皆幼き時より歌ひ慣れたるものに候が、日本に於て最初て歌はれ、餘音嫋々此古き殿堂に響き渡り候時ほど、美しくまた感興深きことは無之候。此日は太陽赫灼として輝き、萬籟寂として聲なく、最も物静かなる日に候ひき。日本人は大刀小劒を挾みて、我等の許に飛び込み來らず、靜穩にうやうやしく、興味あり氣に、此珍らしき光景を傍觀いたし居り候。あゝ這はそも夢にてありしか、幻影にてありしか、そもまた現實にてありしか、若し現實ならば、茲に至らしめたるものは、何ものに候ぞや。禮拝終り會衆は何れも皆な沈黙に、而かも深き感慨に満ちつゝ退艦致し申候。』
米國海軍將官は、斯く日本最初の新敎禮拜式の光景及び感想を記したる後、更に米國政府がハリスに與へたる訓令に就いて語つた。彼は其日ハリスに招かれ、事務室書齋圖書室を兼たる一室に至りしに、ハリスは一見重要なる文書と覺しき書類を持ち來り、其一部分を讀み聽せられたるが、そは國務卿マーレー閣下より與へられたる訓令書なる事は明白なりといひ、該文書に於て、國務卿マーレー閣下は、總ゆる賢明なる方略と仁慈の力を以て、日本に於ける基督敎信仰の十全なる自由、及び布敎の目的を以て來る宣敎師、其他の人々に對する保護を得ん爲に、最善を盡すべしと、ハリスに訓令せられたりと記した。
タウセント、ハリス氏が、幕府をして基督敎禁制を撤廢せしむべく、熱誠なる辯明忠告は、如何なる程度まで貫徹したるかは詳かでない。惟ふに、當時幕府の偏見と頑迷には、氏の熱誠なる盡力を以ても、打克つことができなかつたが、それとも我が國情を察し、幕府の窮境に同情し、現状に於て基督敎の解禁を強迫するは尚早しと認め、やがて必ず其時機の來るべきを期し、徐ろに幕府を誘導勸諭するに努めたのであらう。左に掲ぐるものは、氏が上海の友人(米國聖公會宣敎師)に送られたる書簡である。氏の鋭眼なる觀察のほどを知るべく、また以て聊か此問題に關する消息を窺ふに足るであらう。
『拜復、御尋ねの趣は、拙者の力に及ぶ限り御答へ可申上候得共、小生の所見或は誤れるもの有之やも難計、此儀豫め御承知被下度候。抑も日本人は最も些細なることにても、隠匿するの奇習ありて、そは二千年以來の風習に有之、且又小生は彼等と談するには、一々通譯者の助けを借るの不便を有し候に付、小生の觀察恐くは正鵠を得ざる所あるべく、此邊の事情篤と御洞察を願上候。以上の御斷を以て御答申上候に付、宜敷充分の御斟酌あらんことを希望仕候。
貴問第一、日本政府をして、外國に對する政策を變ぜしめたる原因は何そや。
答、此點に就ては、詳細に御答申上げんと欲せば、勢ひ目下大統領の手中にある事件を公にせざるを得ず。而してこは大統領の許可なくては發表し難き次第に候。
貴問第二、日本と外國との現今の友義的關係は、永續すべきものなりや否や。
答、日本人は小心翼々として、條約上の義務を守るべく候。而して若し現今の交諠にして破ることありとせば、そは外國人の干犯より生ずべく、日本政府の背信より生ずることは萬なかるべく候。
貴問第三、政治上に於て既に現はれたると、同一の行爲を宗敎上の變化に於ても、等しく豫期し得べきや否や。
答、日本人は從來基督敎を以て、侵略及び政府顚覆の思想と密接の關係あるものと見做し居候。人民としては彼等は何等排異敎的感情を有せずと云を得べく、而して國内に於ける彼等の三大宗教は、全人民が等しく共に維持致し居る様に相見え候。概して彼等の宗敎上に關する特徴は、無頓着にありと云ふを得べく、彼等が禮拜の標識に對しては、何等の崇敬の念を有せず候。拙者は日本人に對して、現今基督敎の恐るゝに足らざることを説き、最早該敎は劔の切先にて宣傅せらるゝことなく、何等の異圖をも抱くものにあらざることを會得せしむる爲めに、最も力を盡し居候。此國傅道の將來の成功は一に繋つて、派遣せらるゝ初代宣敎師の性行、擧動の上に可有之、若し其人物が愼重堅忍の士にして、能く辨別自制の力ある人々ならば、其が遂に好結果を生ぜんこと、拙者の疑はざる所に候。
貴問第四、日本の冶者及人民に基督敎を以て近づく最良方法は如何。
答、之れ貴問中の最も答辯に難き箇條に候。日本人は道理に服すること著しき人民に有之候得ば、宣敎師等は國語を學習さへせば、容易に實際的議論を以て彼等に近つき得べく候。
若し夫れ如何なる程度まで、印刷物を公布するを許さる可きかは、只今の處拙者に於て明言致し難く候。拙者の所見に依れば、學校を興し英語を敎へ、又貧民を施療する如きは、最も傅道の爲に有益なる働きたるべく候。
貴問第五、日本人の冶者及人民中に、支那の書籍の用ゐらるゝ程度如何。
答、凡ての貴族、武士、文人及醫師は大概漢籍を讀み候。
貴問第六、出版の自由は如何。
答、日本には未だ新聞紙なるもの無之、而して不穏當と認むるものは、政府其發行を許さゞるべく候。書籍は甚だ饒多にして、且安價に有之、之等は支那字と假名文字にて印刷し有之候。
貴問第七、國民中文字を知る者の數如何。
答、拙者の見る所によれば、讀み書の知識、日本程に普及せるは世界の何處にもなかるべく候。
貴問第八、日本帝國の人口は幾許ありや。
答、未だ正確なる戸籍調査は無之、勿論一定の時に於て、或階級の人員は取調候得共、一般人民は數へらるゝこと無之候。されど拙者が有識なる人民、并に最も其事に詳しかるべき人々より得たる見積は、三千萬乃至五千萬人に有之候。』