支那傳道の任命に接したるリギンス及ウイリアムス兩師は、一千八百五十五年十一月三十日紐育を出發し、シドニーを經て、七ヶ月の後、一千八百五十六年六月二十八日、航海恙なく上海に來着せられた。左の書簡は兩師が上海着後直に本國に送られたものである。
一千八百五十六年六月三十日發、リギンス氏の書簡、
『我等はシドニー發後六十日目。紐育出發七ヶ月の後、本月二十八日無事當地に到着仕候。乍併途中リオ、デ、ジヤネリオに於て九日、シドニーに於て二十一日を過し候へば、實際の航海は六ヶ月にて候。リオに寄航致したるは、紐育出立後間もなく、大暴風雨に遭ひ甚しく船體を破損致候故、修覆の爲めなりしと、貴下に於ても御心付なさるべき、シドニーの方に廻航いたしたるは、上海直航の便船なく、數ヶ月間は一便船の見込もなかりし爲めと、之れ亦御心付なさるゝことゝ存候。紐育出發後より三週間は、殆ど降雨續きにて、二月中南大西洋通過の間は、逆風に難み候。時々氷山の近所を過ぎ、我等はその一を見申候、濃霧濛々として咫尺を辨ぜず、此地方は夏期なりといふに、寒暖計は四十度の低度を示し申候。併し之等以外は我等の航海は愉快にて候ひき。若し航路一層長くありても、直航するよりは、一層變化に富み却て單調ならずと存候。天候の許す限りは、毎日曜日甲板上に於て禮拜を執行致し申候。全船員は毎回出席致し候へ共、彼等の何人も耶蘇にある眞理を知るに至りしことの證明は無之候。
小生は、リオ、デ、ジヤネリオに在つて、傳道委員が此盛大なる市に宣敎師を派遣するの重要を深く感じ申候。小生が見聞せし所は、ブラジルに於ては、神の惠の福音を宣傳する爲めに、門戸廣く開放せられ居ることを確信せしめ候。宗敎の自由は憲法により表明せられ、國語は困難なく學習せられ、人民は接近し易く、而して、羅馬敎會の腐敗せる無學の敎職に感化せらるゝ所殆ど無之、而かも神の眞理を知らざる六百萬の人民ありといふに至つては、ブラジルは宣敎的事業のために、多くの傳道地中の最も人心を誘引する地たらしめ候。
シドニーに於ては、米國領事ウイリアムス氏、聖三一敎區の敎職アシコウイン氏の御厚情に預り申候。此地方の英國敎會員は、活動的傳道の精神を其特色とすることは、誠に喜ばしく存候。・・・・・・ ・・・・・・シドニーを出立後は軟風なりし爲に、揚子江の口外の島々の見へしは、六月二十六日にして五十五日の後に候ひき。翌日我等は支那人の水先案内者を雇ひ入れ申候、其者は亞片喫煙者にして他人の爲に書かれたる推薦状を手に入れ、そを使用する人に候。之は何人にても惡事に候へ共殊に水先案内者には尚更の事に候。船中にては亞片を喫することは禁ぜられ候故に、彼は全日彼が嗜好する亞片なくして過さゞるべからざりき、而して船を操縱して呉淞まで進ましめ候。其處にて我等の船長は米國人の水先案内者を得申候。水先案内者は逆流の爲に日曜日夕までには、船を着くる能はずとの事なれば、ウイリアムス氏と小生は、船長と共に支那ボートにて、翌早朝上海に上陸仕候。我等はブーン監督より暖き歡迎を受け、又た暫時にミツシヨンの諸氏は監督の書齋に集い來り、友愛的挨拶を以て我等の心情を歡ばしめ候。』
一千八百五十六年六月三十日發、ウイリアムス師の書簡、
『紐育出發より、其一ヶ月の長き航海の後、我等は上海に到着仕候。神は辱なくもかく健康と力を以て、此港に安全に送り給へり。希くば、大洋の幾多の危險の中に、愛護せられたる吾が生命が、十字架に依る救の喜音を此人民に宣傳する御用の爲に、新に聖別せられんことを。ブーン監督は最も慇懃に我等を歡迎せられ候。新來の宣敎師到着の報直に傳はり、ミツシヨンの諸氏は來つて、親愛を以て十字架の宣敎師の歡喜と特權と試練、及び此暗黑の國に我等を歡迎せられ候。之れ最も愉快なる集會に候ひき。我等は知らざる人として迎へられず、友として兄弟として迎へられたれば、身は直に本國に在る心地いたし申候。
此夕は監督の書齋に於て開かれたる祈祷會に出席致し候。之は受聖餐者の爲に毎土曜日開かるゝものに候。一度は木石の偶像に跪伏したる主耶蘇に從ふ者の多くと共に祈祷を捧ぐべく此處に在りしは最も善き事に候ひき。
二十九日、異敎の地に於て最初の日曜日を過し申候。我が宣敎師諸氏の多大の勞により、小生がかくあらんと想像したるよりも、遙に喜ばしく凡ては爲され候。十時、會堂の支那語禮拜に出席致し申候。固より一語も解されず候へ共、なほ小生は英語祈祷書の助により、それぞれ異りたる箇所に從ひ、禮拜に共に列り申候。詩頌は小生が少年頃より歌ひ馴れたる譜にて歌はれ候には、驚き入り候がまた嬉しく感じ申候。單純なる音樂の外は支那人に敎える能はざることゝ思ひ居り候ひしに意外にも詩九十五篇及び榮光の頌をも、本國の敎會の人々に聽かすも恥しからぬやうに、歌ひたるには一驚を喫し申候。現在に於ては支那人と交際し得るに至らず、唯だ宣敎的働きの準備に從事致し居るのみに候へば、尚此上に小生が旅行の拔萃を附加する如きは、必要なかるべしと存候。目下の所は毎日前日の事を重覆に外ならず候。』
上海着後兩師は直に支那語の學習を始められた。當時師が支那語研究を孜々として勵まれたることは、左に掲ぐる師の書簡の一節により知ることができる。曰く「五時半起床、七時迄默想祈念聖書の靜讀に費し、七時朝祷に列し、八時書齋に入る。一時間半の後敎師來り十二時まで支那語を學ぶ。後ち敎師食事に行きし間の一時間半を讀書或は書取に過す。敎師再び來れば二時半迄支那語を學び、中飯の後再び五時迄支那語を學習す。五時より六時まで讀み或は書き、六時散歩す。夜は讀書、書取、會話に過す。」と。斯くて稍や支那語にて會話し得るに至りて、支那人執事某氏を補助者とし、新閘宣敎場の働を執られた。千八百五十八年一月十一日、監督ブーン師より長老の按手を領し、同年九月二十日上海基督敎會に於て新閘宣敎場の求道者なりし男二名女一名に洗禮を授けられた。是れ師の支那に於ける働の初穗である。
リギンス及びウイリアムス兩師は、上海に在つて孜々として、支那語研究を勵まれたるが、其進歩著しく、赴任後十八ヶ月を經ざるに、早や支那語に熟達し、自由に會話するを得るに至つた。茲に於て兩師は、千八百五十七年十月二日上海を出立し、第壹巡回傳道を試むる事になつた。是より先、兩師は、本國出發の際から、支那に赴任の上は、一、二年間は上海に留り、支那語を學習したる後、遙か内地に進み入り、未だ福音の傳はらざる或る都市に、協力して傳道を開始せんとの希望を懷いて居られた。兩師が上海に到着した時にロンドン傳道會社のエドキン氏は、既に此種の開拓的運動を試みつゝあつた。其後シ、エム、エスのバルデン氏、及びアメリカン、ボールドのアーチソン氏は、平湖に一家を借りて六ヶ月間福音宣傳に從事した。斯る開拓的傳道を希望する者は少くなかつたが、既婚者にして家族を有する者は不適任なれば、獨身者なる兩師の希望は、上海にある兄弟等に是認せられ、奬勵せらるゝ所となつたので、兩師は之れぞ神意と信じ、先ず省内の各町市を巡回し、福音を宣傳し、聖書其他類書を頒布し、而して斯く巡回したる町市の中、上海の西北にて同地と交通利便の地點にある、一ヶ所を選定し其處に本居を構へ傳道を開始せん計劃にて、こゝに第壹の巡回傳道を試むる事となつたのである。此計劃にて兩師は、十月二日金曜日早朝上海を出發し、行く行く各地に福音を傳へつゝ、次週木曜日に大湖の西邊に到着したるが、其夜リギンス師は激烈なる赤痢に罹り、病床に臥す身となつた。翌日ウイリアムス氏は、無錫市に出で、類書を頒布し、路傍説敎をなし、一日の働きを丁へて歸り來たりしに、リギンス師の容態よからぬので、餘儀なくも同師の回復を待て再擧を期し、一先づ上海に立ち歸る事とせられた。斯くて次週水曜日出發後十三日に上海に歸來せられた。然るにリギンス師の健康短日の間に回復の見込なかりしかば、ウイリアムス師は、リギンス師を上海に止め、此度は單身上海を出發し、巡回傳道に赴かれた。之を第壹の巡回傳道として、其後或時はリギンス師と倶に、或時は單身にて屡ば各地を巡回し、鋭意福音宣傳に努められた。
左に記載するは、師の第壹巡回傳道日記であるが、血氣盛にして熱誠溢れたる師が當年の活動振を想見するに足るものである。師は此巡回傳道には河水を利用せられた。小舟を雇ふて日用品を備付け、陸に上りては終日傳道に從事し、舟に還りては靑々たる水色を眺め、溶々として流るゝ水聲に耳傾けつ、食事を爲し聖書を讀み、而して睡眠に就かれた。
『十一月六日 更に内地傳道旅行を試むべく、正午出立す。此度は、リギンス氏病氣回復後間もなきに、旅行するはよろしからずと、醫師の忠告ありたれば、予は單身旅途に就くことゝなりぬ。小舟棹し進み、日沒前』Hen-Zingに着す、橋上にて周圍に集へる人々に説敎せり。
七日 早朝出立、八時嘉定に着す。同市の中心にある一殿堂に到り、少數の人々に向つて説敎せり、此地は上海に近く、屡ば外人の來訪あれば、人民の或る者は、外人を好奇心を以て見るよりは、寧ろ嫌忌の念を以て見つゝあり。されば外人に對してよからぬ振舞をなせり。夕、大倉に着す。
八日(日曜日) 西門より市外に入り、東門近くまで歩み、聖書及び類書を頒布せり。書籍を贖ふべく一書舖に止りしに、店前に夥多の人々群れ集ひたれば、十字架に釘られし救主に賴りて救はるゝ事を宣傳せり。午後は心地よからざれば説敎を止めぬ。
十日 各澤に着す。此町は三萬五千の住民ありと聞きたるが、未だ曾て宣敎師は來らざりき。聖書及び類書の大部を頒布し、説敎を試みたれど、予に取りては餘りにおもしろからざりき、聽者を益することなかりしを恐る。人民は外人を珍しがり興すれど、其宣傳する所に注意を拂はざりき。後ち某の小さき町に止り、類書を與へ説敎せり。此町には何人もこれ迄に來らざりしゆへ、多數の聽衆ありて至極靜穩に聽聞せり。
十一日 朝飯後、約三萬の人口ある洞里市の本通各所を巡り類書を頒布せり。人民の擧動より察するに、此地には外人の來訪稀なりし如し。予が書籍を與へんとしたるに、或る人々は喫驚仰天して飛び退きたり。又た或る人々は、予が舟人に書籍は與へらるゝなりと確めらるゝまでは、躊躇して受けざりき。町の一隅に立ち止り、群衆の來たり説敎を試むべき機會を得んと待ちつゝありしに、折柄雨降り出したれば、人々は見向もせざりき。支那人の思慮は其の好奇心よりも大なり。
十二日 此朝呉江の市内にて一回、市外にて一回説敎す。兩所にて書籍を與へたり。二萬五千の人口を有する。Pah-Tsakに於て書籍を頒布し、約二百の聽衆に説敎せり。
十三日 平望の龍王廟の殿堂にて説敎し、六萬の人口を有する此全町に類書を頒布せり。十萬の住民ある震澤に着す。此處にては聖書及類書を與へたるも、大道説敎のために甚しく咽喉を害したれば、説敎は爲さゞりき。十二萬の住民ありといふNon-Dzingに於て、類書を頒布せり。群衆は非常に喧噪を極め、如何にも手に合はざれば、予は立ち去らんとして歩を進めしに、無數の群集は、聲を限りに喧喚びて追跡し來れり。此甚だ心快からぬ群衆を率ひて、町より四百ヤード程に到りしに、予が小舟は予が期待せし方向とは、全く反對に繋泊したれば、予は踵を還して再び來し道に廻らざるを得ざりき。こゝに於て群衆は更に喧喚びて追跡し來り、予が小舟が此方に向かひ來りし時、彼等は幾度か予を目がけて汚物を投げ付けたり。予がこれ迄巡回したる諸所に於て、斯る惡待遇を蒙りしは、之が最初なりき。之は外人に對する人民の反感より勃發したるものとは思はれず、惟ふに其筋の人々が彼等を煽動したるに由るなるべし。
十四日 午後湖州に到着す。市内に類書を頒布せり。小舟水門を過ぎし際數名の男兒頻に投石して、舟人を惱したるが、幸に誰にも中らざりき。
十五日 市内にて一回、市外にて一回説敎せり。
十六日 三萬の人口ある町、Ling-Co.に於て聖書及雜書を配布し、數百の會衆に説敎せり。松陵に着す、人口十一萬五千ありといふ、類書を頒與せり。
十七日 二十萬の人口を有する市、呉淞に着す。類書を頒布し、また小舟の前に立て多數の人々に説敎せり。數日間訪ひたる何地の聽衆よりも、靜穩に聽聞せり。此地には宣敎師來らざることを知れり。午後福場に於て類書を頒與せり。
十八日 三十萬の人口ある嘉興に於て、聖書及類書を頒布せり。En-yen-Lueの宮殿を訪へり。宮殿は市街に近く、美しき一帶の流水に圍まれたる小島にあり。午後平湖に到る。此地のロンドン傳道會社のウイリアムソン氏は、大患に罹り上海に歸るの止むなきに至れりと聞けり。此地はシ・エム・エスのバーデン氏、アメリカン・ボールトのアーチソン氏に依り、傳道開始せられ、有望なりしが其後六ヶ月を經て、バーデン氏は上海に轉任の必要生じ、傳道事業は一時廢止せられたるが、後ち暫くしてウイリアムソン氏來住し、傳道に從事せられたるに、氏は健康を害し、亦た此地を去らざるを得ざるに至れり。官憲は外人の住居するを知らざるにあらざるも、敢て干渉をせざりしと云ふ。
二十日 此朝、順潮を待つ間に、一村落にて説敎せり。夜歸海す。』p>
リギンス及ウイリアムス兩師は、殆んど半歳の間は、南船北馬、屡ば傳道旅行を試み、上海より百哩以内の各都市町村を驅け廻り、燃ゆるが如き熱誠と、非常なる忍耐を以て福音の種を播きけるが、遂に最初の計畫の如く、未だ福音の傳らざる一都市を選定し、傳道を開始する事になつた。兩師が最適地として着目せられたるは常熟である。同市は上海の西北九十哩にして當時人口十二萬五千ありしといふ。千八百五十八年二月十一日、此少壯氣鋭の二聖職は、堅固なる信念、熱烈なる傳道心に充ち充ち、幾多の壯圖を懷いて常熟に向はれた。兩師は、該市着後二週間具に民情を視察し、又た家屋を借受くるに奔走せられ、先づ住宅として適當なる家を借受け、更に市内に禮拜堂に使用すべき家と説敎場に使用する家を借受けんと希望せられたるが、市民は外國人に家を貸與するを恐れ或は厭ひたれば、家屋を得るは甚だ困難であつた。兩師は、已むなく市外にある或る殿堂内の數室にても借受け住はんと、專ら市外に住宅を尋ね求め、漸く二月二十二日月曜日に至つて、北門外の一殿堂内の四室を借受る約が整つた。翌火曜日、ウイリヤムス師は、小舟より物品を運び移し、其殿堂内に居を構へられた。リギンス氏は、水曜日に、家具及び傳道用の類書を運搬すべく上海に歸られた。
然るに數日の後、リギンス師が、上海にて移轉の準備に忙しき最中に、突然ウイリヤムス師は上海に歸り來られた。當時の事情を語れるリギンス師の書信に曰く、p>
『昨日、常熟に出立の準備忙しき最中に、ウイリヤムス氏は、突然歸り來り、彼の殿堂に定住七日後、餘儀なき事件出來し、退去せざるを得ざるに至りし由申され候。事の次第は、氏が彼の殿堂に居を構へたりとの報告は、忽ちに全市及び近村までも傳はり、夥多の人々は殿堂に寄せ來り氏に面會を求め候。且つ外國人は殿堂を購ひ、之を破壞したる後、新に其處に洋館を建築せんとすとの風聞喧傳せられ候。土地の警官は、彼自ら職責と心得たるに由るか、或は上官の命令に出でしか、十分明かならず候へ共、兔に角に、我等に室を貸したる殿堂の僧侶の許に來り、速に外國人を退去せしむべしと命じ、若し聽かざるならば、其筋に拘引し、嚴しく鞭撻を加ふべしと強迫せられ候。僧侶は戰慄恐怖れて、ウイリヤムス氏に來り、前納の室料を差出し、平身低頭して、退去ありたしと請願せられたる由に候。斯る事情なれば、氏は退去するを善とし、一先づ歸來したる次第に候。』p>
兩師が苦心慘憺辛じて借受けたる家は、斯の如くして退去せざるを得ざるに至り、一時は殆んど家を得る望はなかつたが、素より不屈不撓の兩師なれば、何篠之が爲の常熟定住を斷念すべき、其後一ヶ月間幾度か試み幾度か失敗したる後、漸く再び西門外に一家を借入れることができた。茲に於て兩師は、千八百五十八年四月二十七日、住み慣れし上海を出立し、愈々常熟に轉住し、傳道を開始するに至つた。兩師は、日水兩曜日は自宅に於て集會を開き、其他の日は市内各所に於て、路傍説敎をなし、又た最寄の村落にも踏み出し、只管福音宣傳に努められた。