監督ウィリアムス師傳
元 田 作 之 進 著
第壹編 監督の家庭と敎育
日本に於ける新敎基督敎傳道の開拓者、日本聖公會第一の監督、篤信高德の大聖徒たる監督神學博士チヤニング、ムアー、ウィリアムス師は、紀元一千八百二十九年七月十八日を以て、北米合衆國ヴアジニア州リチモンド市に生れられた。師の家は農であつて父は篤信誠實なる基督敎徒であつた。師の幼少の頃父は沒したるらしく、師は母上に就ては廔は人に語られたるも、父上に就て語られしを聽きし者は殆んどない。父の沒後母は能く一家を整理し、困難なる生活の中に數人の子供を撫育した。
監督曰く 予が少年の頃は家族が一日の中に、互に親しく顏見ることは、晩餐の時の外は無かりしと、皆なそれぞれ相應に朝より夕まで、忙しく勞働したものと見へる。監督も少年の頃市の相場表を配達して、若干の賃金を儲けられたそうである。母は敬虔篤信の淑女であつた。多くの偉人に於ける如く、師は母の感化に負ふ所が頗る多い。殊に其純潔熱烈の宗敎的情感は母の賜物である。以下の話は師が自ら語られし所であつて、如何に母上が敬虔にして、靈肉ともに圓滿なる人物を作らんと努められたるかを知ることができる。
監督曰く 母上は予が幼少の頃より、毎日詩篇を一節づゝ暗誦せしめ、靑年に至るまで一日も怠ることなかりき。之は母の大なる賜物にして、予が生涯を益せしことの多大なるは、言語に盡す能はずと。また曰く、母は毎日曜日予を連れて日曜學校に學ばしめ、其日の學課の終るを待ち、後ち再び予を伴ひて敎會の禮拜に出席せりと。また曰く、予は幼時より體格前に曲み胸部狹く、極めて蒲柳の質なりしかば、母は予が健康に一方ならず心を痛められ、運動、衞生に意を用ひ、肉體の鍛錬に力を盡されたり。特に予が胸部を壓する癖を矯さんと、種々苦心せられたるが、遂に一策を案出し、袴ツリの肩の處に鳥爪型の鐵を附け、前に俯けば胸を椋む樣になし、常に姿勢を正さゞるを得ざらしめたり。之が爲に彼の兒は肺病なりと隣人に評せられたる予は、靑年時代には屈強の體格となれりと。師が粗衣粗食に甘んじ、朝は五時より夜は十一時まで五十年一日の如く精勵努力せられたるも、未だ曾て藥餌に親しまれたることなく、常に潑剌たる元氣と快活なる精神を有したるは、身體の強健なりしゆへである、而して師は常に人に語つて、身が多年神の御用を爲すの器たるを得しは、母の賜なりと云はれた。監督の母は主日を嚴格に守り、敎會の禮拜に出席するを無上の特權幸福とし、常に其尊重すべきを敎へ、如何なる日にても、敎會の禮拜には必ず子供を引連れて參列した。或る日曜日のことであつた。此日は寒風澟烈雪は粉々として降り、行人も稀れであつたので、家族は今日は敎會に行かず家で禮拜しやうと語り合ふて居つた。其時母は窓から外を見ると、折りしも監督ムーア師が、雪を冒して敎會に行く所であつた。母は之を見ると、見よ監督は此雪を冒して敎會に行けり、我等も行きて彼と共に禮拜すべしと、家族等を勵し自ら先に立ち、吹き荒む風雪を冒して敎會に行かれたそうである。此事により、師は幼な心に敎會の禮拜に出席することは、人生の最大事なりてふ念を印刻せしめられたりといふ。
監督は一生涯に二度觀劇に行かれたと云ふことである。其一度は十歳位な頃のことで、或る時、母に演劇を觀せて下さいと切りに迫つた、母は二度と觀たいと云はぬならば、觀せてやらうと云はれた。監督は決して二度と觀たいと申しませぬからと願はれた、さらば何日に迄度觀せてやるから待てと、確く約束された。やがて約束の日が來て、母は今日は演劇に連れて行くと云われたが、先の事を全く忘れた監督は、不審な顏をして演劇にですかと念を押した。其時母は、お前が切りに願つたから、今日連れて行くと約束しました、と云つて約束を實行し、監督を連れて演劇見物に行かれたそうである。其後監督が靑年の頃、或る人の招待に止むなく劇場に行かねばならぬ場合があつた、其時監督は態々電報を以つて、母の忠告を求められ、其許を受けて行かれたそうである。一小事と雖も子に對する約束を實行した母、飽まで約束に從つた子、實に此母にして此子あり、母子の美しい關係は、此一事に依りても知らるゝのである。
監督は十六七歳の頃、商業見習の爲めに、ケンタッキー州へンダーソン町の某雜貨店に、雇はるゝことゝなつた。數年間孜々汲々忠實に奉公したので、大に主人の信用を得、番頭に引立てられて、重要なる店務を取扱ふやうになつた。監督が聖職を志願せられたるは、此雜貨店に勤務中の事であつた、當時の事に付き、チヤ―レス、ルイス、ピツグスと云う人は、チヤーチマン紙上に左の投書をした。
『記者足下、本敎區の記録及本敎會の最古の三人の受聖餐者の記憶は、故日本監督ウイリアムス師につきて、大いに興味あるべき一二の事實を供す。
千八百五十年本敎會牧師、ジヨン、スオン氏は敎區會議に敎會の信仰状態の頗る有望なる旨を報告し得たり。「十八人信徒按手式を受け、其中に二人は聖職志願者なり。」此二人中の一人は實にチヤニング、ム-ア、ウイリアムスなりき。千八百四十九年彼の信徒按手式を受けし時は、當町の雜貨店の番頭なりき。當時當敎區に敎職を執行しつゝありたる英國敎會の聖職ルツカー氏は、盛に傳道説敎を爲したるが、本敎會の牧師スオン氏の夫人は靑年等と共祈つて大に氏を援助したりき。ウイリアムス氏は白面金髮靑眼にして鬆髯なく、短軀の人、甚だ遠慮勝ちにして、沈默に「婦人の如く恥かしがり、特に優れたりと思はるゝ節なき」人として記憶さる。當時日本は遠國なりき。然るに此かる性質の人をして、此かる遠征の途に上らしめたる感動は、永久のものたりしと同時に、強烈深遠のものたりしに相違なし。彼はヘンダーソン町を去つて、ヴアジニア神學校に入り、千八百五十九年日本に向つて出發しぬ』。
之より數年の後、監督が支那宣敎師として、上海に赴任することゝなり、正に出潑せんとして紐育に在りし一日、偶ま途上にて、チヤニングと呼び止むる者があつたので、振返り見れば、ヘンダーソン町の舊主人であつた。舊主人は監督に、お前が今頃まで我が店に勤めて居たならば、立派な商人となつたものを、聖職になりしとは、惜きことしたりと云はれた。時に監督は自己が傳道に身を献げたる決心を述べ、此度淸國に赴任する事を語りしに、彼も感ずる所ありしか、別るゝに臨んで彼の地の傳道の爲めに使用はれよと、金二百弗を與へられたそうである。
ヘンダーソン町を去つた監督は、一千八百五十一年ヴアジニア州ウイリアム、エンド、メリー大學に入學し、千八百五十三年同大學を卒業し、ビー、ヱーの學位を受け、更に進んでエ、エムの學位を領し、後ち直ちに同州の神學校に入り、神學を終め、千八百五十五年同校を卒業し、同年六月アレキサンドリアの基督敎會に於て、監督ミート師より執事の按手を受けられた。同年十月外國傳道委員より、ジヨン、リギンス師と倶に支那宣敎師に任命せられた、時に師は二十六歳。斯くて血氣湧くが如き少壯の聖職は、熱烈なる傳道心に燃へ、異邦遠征の壯圖を懷いて、出潑の日を待たれつゝあつた。