監督ウイリアムス師の付添人として、師に同行して歸米したるガーデナー氏は、明治四十一年五月卅一日紐育發にて、在東京の夫人の許に送られたる書状中に橫濱出帆及び航海中の監督に就き、下の如く記述された。
『余は過る月曜日いよいよ監督をリツチモンド市の從兄弟の手に托し、一先大安心致候。
・・・・・橫濱を出帆して卿等の艀舟と相離るゝや、老監督は欄干に凭れつゝ、其手を欄干の上に擴げ、一同の爲に祈禱をなし、祝福を宣せらるゝを見候。余は當時之を一見して只管暗涙の下るを禁ぜず又其後之を想起して涙ぐまぬこと無之候。其時余は此老聖人の手より、一種の祝福の祕光の發するを見たる心地いたし候が、此は勿論余の想像に外ならざるべく候。やがて艀舟の見へなくなると共に請はるゝ儘に甲板上の椅子に師を伴ひ行きしに、其眼は涙にて滿ち居候ひき。室に行きたしとの事故、伴ひ下りしに、靜に獨り居たしとの事故、室外に出で半時間程經て歸り行きしに、師は兀然跪座して祈禱に餘念なし、よりて夕飯の予鈴の鳴るまで、待ちて室に入り候。
豫てパートリツチ監督は、自分に航海中は室に籠りて食事にも、食堂に出でざるべしと言はれたりと聞きし故、さならんと思ひ食事に行き給ふべしやと問ひしに、何事も全く余に一任したれば、余が爲せよと命することは何にても爲すべしと申され候。第二鈴の鳴る頃には用意全く整ひて、却て長き途を行きて食堂に入り候。此後着米迄は之を例といたし候。予は腕を出して師を案内して食堂に行き、食卓に就くときは自ら食すべきものゝ選擇を一切余に委ねられ候。食事も大に進み旅行中只だ一回、食事を廢され候のみに候。此は或る晩余に知らさずして、自ら食堂に入り、パイを食せしに胃膓を害せられたる翌朝の事にて候ひき。
其よりは決して予の同意を得ずしては一物も口にされ不申、此くまで全然余に身を一任され候さま、たゞたゞ見るもいぢらしく候ひき。只海上又ホノール及友人の宅にて、旅行中數回起りしことなるが、師は突然仰氣樣に倒れられ候時のみは、余には一切手をつけさせられ不申候。余は此かる際勿論急ぎ介抱せんと試みしに、師は仰臥のまゝに、手を揮り足を動しろしき樣にて之を拒まれ殆ど正氣の沙汰と思はれず候。幸いに此る發作は數日に一回起るのみなれば、其間可成短距離の散歩を致さるゝやう相勸め申候處、やがて大に力付き音樂を聽かんとて、終に予を出ぬきて自から談話室にゆき、諸所搜索の後師を圖らず見出せば、師は滿面微笑を湛ゑ、予は卿の手を籍らず自ら單獨にて、此處に來れりと言ひて、其容我が欲する何物をか獲て、非常に喜び微笑む小兒の如く邪氣なく候。
またサンフランシスコ着二三日前の事なりき。師の言はるゝやう。此度の航海中予の如き全くの他人に、何人も皆な親切なるは、實に意外の事なりと。予は師に申候、人々の師に對して親切なるは、今に始まりしにあらず、たゞ師が利己的に非利己的なるが爲に、何人も滿腔の意を果すこと能はざりしなりと、時に師は答へて言はるゝやう、成程自分とても數人の親友を有せることを知らざるにあらざれど、予の如きものに誰も彼れも親切を盡さるゝ事あるべしとは、實に思ひ設けぬことにてありきと。その謙遜のほど人をして轉た故監督ブルツクス師を憶ひ起さしめ候』。
監督は歸國の後は、リツチモンド市の愛甥ハリソン氏に身を寄せ、靜に老後を養はれた。然しながら、畢生淸貧に馴れたる師は、其生活の急に變じて安樂となれるを感じ、斯くもやんごとなき住居に起臥するは、畏れ多しと訴へらるゝ事が屡々であつたといふ。
當時見學のため在米せし長老名出保太郞氏は、屡リツチモンド市に師を訪ひたるが、其通信の一節に曰く、『却説生事樂しき記憶をアレキサンドリアの丘上に殘して、四五の學生の故鄕に休養する者と同車して、十二月の二十三日神學校を辭して、リツチモントに參り、クリスチアン氏とて小生の親友となりし一學生の宅に客となり、一週間樂しく相暮し、此間第一の目的たる老監督を數回訪問致候。小生の宿より半丁程のハリソン氏とて、立派なる實業家の宅に、廣やかなる一室を占領し起臥致居られ候。此は監督の甥に候。二十七日の日曜日はハリソン氏と三人同乘して禮拜に出で申候。敎會は監督の子供の時に屬せしモニユメンタル、チヤーチに候。師は子供の歩み始めの如くにハリソン氏右の手、小生は左の手を取り、馬車よりベンチ迄連行き候。五十年の昔靑年血氣勇氣と信仰と、キリストの靈に充されて、極東の一孤島に其全生涯を捧げし偉人、今は此老の境に在るを憶ひ轉々無量の感慨を催ふし候。』又た曰く、『余が最後の會見の時(同年クリスマス)、其の愛甥ハリソン氏の廣々としたる一室に、寢臺の傍の椅子に依りて書見し居りたる其時、記憶も既に衰へたる如くなりしも、語一たび日本傳道に及ぶや、口角沫を飛ばして論じ、余が同伴せる一神學生に日本に行けよと、切に相勸る處二十年前の監督を偲ばしめたり』と。
明治四十二年九月師の病勢重りたれば、愛甥ハリソン氏は、師を同市ジヨンストンウイリス醫院に入院せしめた。入院の後は意識概ね定かならず、些少の苦痛もなく、殆んど常に昏睡の状態にありしものゝごとく、然かも精神恍惚の裡にも、眷々としてを忘れず、日本に在る心せしと見へ、英語を用ひず日本語を語りて、看護婦を困らせ、日本語にて祈禱を捧げたりといふ。
左に掲ぐる一篇は、明治四十三年十一月七日、即ち監督就眠廿五日前、師を病院に訪ひたる博士元田作之進氏の通信より拔粹せしものなるが、師が當時如何に靜安に天父の御召を待ちつゝありしか、而して其臨終が落日の美しきが如く、如何に美しきものなりしかを想像し得るのである。
『七日(十一月)にウイリヤムス老監督を病院に訪ふた。監督は過去一年と三ケ月間、病院に居らるゝとの事である。室内に導かれて其病床の傍に立つた。殆んど天使の病めるが如き有樣にて、平和に寢臺に橫はり手足を動かすことなく、聲を發する事もなく、誰れ彼の識別もつかず、多くは目を閉ぢて安かに眠り居らるゝが如し。
傍に立ちて日本の元田である、記憶せらるゝやと、幾度か繰り返して問ひしが、頻りに見つめて、漸く口を開き忽ち笑顏となり、右の手を靜かに出して握手を欲せられ、握手幾分容易に放つを好まざるものゝ如く見へた。看護婦が傍より「誰か御記憶ですか」と二度も三度も問返せしが、それに對しては少し顏を左右に振られたるが如く見へたれども、笑顏と云ひ握手と云ひ、意志の疎通したるは慥かである。嗚呼人生五十年を我日本に獻ぜられたる此老監督、今は病床に橫はりて神の召を今か今かと待ちつゝある。善き戰をなしたる老將、神は必ず最上の榮冠を彼れに與へ給ふであらふ。』
死の來るや何時も森嚴である。然れども聖徒の終は地上に於て聞き得る神に捧ぐる歌である。五十年の生涯を神に獻じ、心殘りなく其業を成して靜に死の至るを待つ監督は、恰も霜深ふして秋葉の紅益鮮麗なる如く、其終焉益近くなりて、愈至純至烈なる靈光の赫灼たるを思はしむるのである。死よ汝の刺は安くに在や、陰府よ汝の勝は安くに在や、吾主イエスキリストによりて勝を得しむる神に感謝す。夫は深痛なる悲哀の中にも一種の神聖の喜びを以て、此の忠誠敬虔の聖徒の靈魂を、天父の御手に委託し得る事を。蓋し師の如き高潔偉大なる人格に於ては、死は眞に凱旋なり安息なり、希望なり、向上なりしと信ずるからである。今や其時は來つた。明治四十三年十二月一日の夜、時は刻一刻流れ行き、師の周圍には嚴なる沈默があつた。凡ての事は整へり。翼うちかはし迎への聖使は、天降り來つらん。やがて師は何の苦痛もなく、何の煩悶もなく溘焉として瞑ぜられた。時に二日午前三時。かくて天未だ明けやらざるに、早くも師の靈は常に慕ひし生命の朝日照る永遠の故鄕に歸られた。
永眠の翌日、十二月三日正午、リツチモンド市のモニユメンタル、チヤーチに於て、質素なる葬儀は執行された。此葬儀に參列せられたる元田博士の當時の通信に、其模樣が詳記されてある。p>
『十二月二日午前中に種々の用事をすまし、午後書面を認め居る時に電話が來た、ロバート、ウイリアムス、ダニエルと云ふ人からであつた。同氏とは曾て或倶樂部に於て食事を共にした事もある、ウイリヤムス老監督の姪の子であつて、費府に於て銀行事業に從事して居る靑年である。其老監督は日本の恩人であるから、其傳記を編輯したき旨を述べた所が、大に贊成し、出來る丈け其事業の成立を補助すべしとて、種々打語らひて別れたのである。此人から電話が來つた。ハツと思つて、電話機に耳と口をつけて其用向を聞けば、今朝(二日)午前三時ウイリアムス老監督は眠にかれた。葬儀は明日(三日)正午リチモンドのモニユメンタル、チヤーチに於て行はるべしとの事であつた。十一月七日即ち二十五日前に老監督を其病床に訪問した時、既に半ば天國の人であるかの如く感じたゆへ、斯くの如き電話は稍々豫期した處ではあつたが、しかし實際に就眠の報知を受けたときは、何とも云へぬ感じがした。
ダニエル氏の電話をうけて、直に其葬儀に列せざるべからすとの感が起つた。其れには傳道會社の許可を受けねばならぬ。手紙も電報も間に合はぬ、費府より紐育まで九十哩三合である、神學校より直接に長距離電話を傳道會社のウード氏に掛けた、行けとの返答である。幸に翌日は何の約束もなかつたのである。暫くするとオーガンツのゼ、トムソン、コール氏より電話が來た、傳道會社の通知に、マキム監督は明日(三日)午前十一時ホボコンを出帆して歸任の途に就かる、葬式に列し兼ねる故自分に行けとの事である、命令がなくとも行く積りであるが、君は行くかとの問合せであつた、行くと答へた。そこで其夜十二時十五分費府發の汽車に共に乘込むことに相談した。費府より華盛頓までは百三十五哩二合で三時間半ほどかゝる、華盛頓よりリッチモンドまでは百十六哩で是れまた三時間近くかゝるのである。會社が異なるので是非とも華府にて乘替へねばならぬ、夜三時間餘りの汽車旅行、寢臺を買ふには餘りに短く、買ずには餘りに長く、何としよふと思つたが、日本汽車旅行と思へば大したことでないから、寢臺なしに乘り通して、午前八時にリツチモンドに着した。
コール氏と共に直にゼツフアソン旅館に行き。休息して、同氏は親戚の許に赴き予は旅館にて朝食をすまし、共にギブソン監督の許に赴いて、到着の挨拶をした。ギブソン監督はウ監督の就眠と共に、傳道會社宛予に電信を發せられたとの事である。葬儀は正午であるから一同十一時三十分迄にモニユメンタル、チヤーチに參集すべしとの命令であつた、多少の時間もまだあるから予は老監督の眠られたジヨンストンウイリス醫院に至つて、老監督を看護した看護婦に面會し、就眠當時の樣子を聽取した。實に穩かにて何の苦痛もなく、未だ曾て斯の如くの平和の就眠者を見たことがないと述べた。十一時前にギブソン監督の邸に歸り、同監督と同車にてモニユメンタル敎會に赴いた。同敎會の位置は固と劇場であつたが、開演中に失火し、多くの見物人を燒いた、其跡に紀念として敎會堂が建てられたとの事である。遺體は就眠後直に老監督の甥に當るジヨン、ダブリユー、ハリソン氏の家に引取られ、葬儀の當時、其家より敎會に送られた。
十二時には列席の牧師も會衆席の來會者もコアイアも皆揃つて、遺棺は會堂の前に到着した。棺持はアーチ、デイーコン、モリキユアー氏、聖三一敎會牧師グラヴアト博士、聖愛敎會牧師メーリン氏、聖約翰敎會牧師グードウイン氏、エムマニユエル敎會牧師オスグート氏、アンデレ敎會牧師センメス氏、其の他イーグル及びタイラーの兩聖職であつた。チヤンセルにはギブソン監督を始め、當敎會牧師モーリス博士、雅各敎會牧師クラーク博士、諸聖徒敎會牧師ダウンマン博士、コール氏及予の六人であつた。會衆席には六十人計り見受けたが、其中には老監督の甥なるハリソン氏夫婦子供、姪なるダニエル夫人、親友のジヨン、エル、ウイリヤムス氏、親戚であり又同窓の學友であつたハンスブロー氏とであつた。
葬式文の始めはギブソン監督とモーリス博士と交々朗讀して進行し、クラーク博士は隔節詩篇を朗讀して、コアイアー其次節を歌ひ、ダウンマン博士聖書を朗讀し、予は使徒信經を導き唱へ、ギブソン監督の祈禱を以て式を終り、遺體をハレーウード墓地に送くり、予は監督と同車して隨行し、墓地の式は監督とモーリス博士とコール氏に依て行はれた。
此墓地は多くの監督を葬り、多くの大統領を葬れる有名なるものにて、多くの小山より成り、小池を有し、樹木を巡らし、如何にも幽邃なる仙區である。老監督の遺骸は其兄弟と其母公の傍らに埋められた。予は老監督の生前に於て最後に其温顏に接し、其音聲を耳にしたる日本人である。今又た其葬式に列するを得たのは誠に幸福であつた。』
我等が敬愛する監督神學博士チヤニング、ムアー、ウイリアムス師の尊體は、今や北米合衆國ヴアヂニヤ州リチモンド市の、幽邃閑雅なるハレーウードの仙境に、「主に在りて眠れるものゝ卑しき身を變へ、その榮光の身體に肖らしめ給ふ」時を俟ちて、靜に眠らる。
師が愛せし我が日本の邦土は、師の安息所として其の一小隅を與ふの榮を拒まれたるは遺憾極リなしと謂ふべきである。然れども又其無形の感化は幾多の心靈の裡に生き、子々孫々に傳はり行きて窮まる所なきを思ふて、師自身の御手を以て、黑に非ず活神の靈にて、大理石ならぬ心の肉碑に記されたる、永遠にして光榮ある紀念碑を有する至幸を、神に感謝せねばならぬ。神よ、吾儕各をして彼の此の貴き活ける紀念碑たる光榮を得しめ給へ。
全能の神よ、主は擇びたまひし者を結び合はせ、聖子われらの主イエスキリストの身體なる公會に連ねたまへり、願くは我らに恩寵をあたへ、主の聖徒の模範に從ひて常に純潔きことを行ひ、終に主を愛する者のために備へ給ひし大なる歡喜に與ることを得させ給へ、主イエスキリストによりて希ひたてまつる、アーメン。
(日本聖公會祈禱書一二六頁諸聖徒日特禱)