監督の日本傳道の第三期東京時代は、大阪より居を東京にうつされたる明治六年十一月より、日本聖公會が組織せられし(明治二十年)後、監督職を退き(明治二十二年十月)、更に京都地方部に於て、長老の職務を執らるゝことゝなりし明治二十八年二月に至る迄である。此期間には、本國傳道會社より多くの男女宣敎師を、我國に派遣せられたれば、東京、大阪に於ける現在の諸敎會は創立せられ、或は其基礎を置かれ、學校病院は設立せられ、新傳道地は開始せられて、大に米國聖公會傳道會社の我國に於ける傳道事業は發展した。此期間の師が監督として在職十六年間(明治六年十一月より同二十二年十月まで)に、師の管轄の下に創始せられたる傳道事業を略述すれば、明治七年二月築地に講義所を設け、同九年品川、駿河臺、神田、湯島、淺草等に傳道所を開き、同十年深川大橋三一敎會、同十一年神田基督敎會、同十一年川越、同十三年古河、館林、行德に傳道を試み、同十六年立敎敎會を起し、同十八年北多摩、熊谷、寄居に傳道を開始し、同二十一年幸手の傳道に着手し、同二十一年熊谷聖保羅敎會、同二十二年川越基督敎會を建設し、同年東京聖愛敎會、前橋聖マツテヤ敎會の基礎を置かれた。
明治七年築地居留地に一學校を開き、同十五年校舍を新築し、立敎學校と稱し、同八年湯島に女學校を創設し、後ち立敎女學校と稱して、築地居留地に新校舍を建てられた。明治十七年築地及び深川に施療所を開設した。以上は東京及其附近であるが、更に是より先、明治四年大阪古川町に講義所を設け、後の聖提摩太敎會(現今の川口基督敎會)の基礎を置かれた。明治五年大阪に學校を開設し、同十四年英和學舍と名稱して居留地に校舍を建築し、同八年照暗女學校を起し、同十五年聖慰主敎會、同十九年聖保羅敎會、同二十年聖約翰敎會を創設せられた。大阪附近に於ては、明治八年堺に傳道を試み、同十四年郡山、和歌山、同十五年五條、同十六年奈良、百濟、高田、田原本、同二十年京都、同二十一年櫻井、橋本、松山、上市、大津に傳道を開始せられた。明治六年大阪に施療所を開き、同十六年病院を新築せられた、之れ聖バルナバ病院である。明治二十二年奈良には英和學校が建てられた。
此期間師が監督在職中に、我國に來任し師の管轄の下に働きたる宣敎師は、ウイリアム、ビー、クーパー氏(明治六年十一月來着 同 十五年三月辭職)、クレメント、チ、ブランシエー氏(明治六年十一月來着 同十九年歸國)、エレン、ヂ、エデー孃(明治七年十一月來着 同三十四年四月歸國)、フロレンス、アール、ピツトマン(明治十二年十一月來着 ガーデナー夫人)、チ、エス、チング氏夫妻(明治十一年十一月來着 同 三十八年歸米)、ジョン、マキム氏夫妻(明治十二年三月來着 現在北東京地方部監督)、イ、アール、ウドマン氏夫妻(明治十三年九月來着 同四十二年七月永眠)、ジエ、マクドナルド、ガーデナー氏(明治十三年十月來着 現在北東京地方部)、ベル、チ、ミキ孃(明治十四年十二月來着 後ちラニング夫人明治二十三年二月十一日永眠)、マーガレット、エル、ミード孃(明治十四年六月來着 同 十六年六月歸國)、サラ、エル、リデツク孃(明治十五年四月來着 同二十二年六月歸國)、エマム、フルベツキ孃(明治十六年六月來着 テリー夫人)、宣敎醫師ハレル氏(明治十七年三月來着 同 二十年九月歸國)、フランセス、ジエ、シヨー孃(明治十七年四月來着 同 十八年六月辭職)、リベカ、エス、フオールス孃(明治十七年四月來着 同 十八年四月歸國)、メリー、メール孃(明治十七年五月來着 同 二十四年歸米)、エムマ、ウイリアムソン孃(明治十七年五月來着 永眠)、ヘンリー、ページ氏夫妻(明治十七年五月來着 同 三十年歸米)、シヨン、エツチ、モリスー氏夫妻(明治十八年三月來着 同 十九年九月辭職)、アドルフ、エム、リユイソン氏(明治二十年三月來着 同二十一年四月辭職)、ジエー、タムソン、コール氏夫妻(明治二十年八月來着 同 二十五年期米)、アイザツク、ドーマン氏夫妻(明治二十一年二月來着 現在京都地方部長老)、宣敎醫師ヴイクトル、エム、ロー氏夫妻(明治二十一年五月來着 同二十三年二月歸國)、サラ、エス、スプレーク孃(明治二十一年五月來着 現在ミラー夫人)、リラ、ブール孃(明治二十一年五月來着 現在京都地方部)、カリー、イー、パーマー孃(明治二十一年九月來着 同 二十八年辭職)、マルタ、オルドリツチ孃(明治二十一年十一月來着 現在京都地方部)、ジヨセフ、エム、フランシス氏夫妻(明治二十二年二月來着 現在印度亞市監督)、
ジヨージ、サーザン孃(明治二十二年四月來着 現在京都地方部長老)、リベカ、フオード、ピース孃(明治二十二年四月來着)、ジヨン、アムブラー氏夫妻(明治二十二年九月來着 現在京都地方部)の諸氏にして、此期前に來任し大阪に於て、既に傳道に從事しつゝありし宣敎師は、アーサー、アル、モリス氏(明治四年五月來着 大正二年永眠)、ジエ、エツチ、クヒンビー氏夫妻(明治五年十二月來着 同八年十一月夫人永眠同十三年十二月歸國)、ジ、デ、ビ、ミラー氏夫妻(明治五年十二月來着 同七年九月上海に轉任)、ヘンリー、ラニング氏(明治六年七月來着 現在大阪聖バルナバ病院長)、チヤーレス、エイチ、ニユーマン氏(明治六年九月來着 翌七年十二月歸國)の諸氏である。此等の宣敎師諸氏が日本聖公會創業時代に於て、幾多の苦楚を嘗め困難と戰ひ、牧會に傳道に敎育に盡瘁し、多大の貢獻をなしたることを記憶せねばならぬ。
監督が東京に移られたるは、明治六年十一月であるが、傳道に着手せられたるは翌七年二月からであつた。此間は監督は旅館の一室を假住ひとして、適當なる家屋を借受けんと尋ね求められたるが、當時外國人に家を貸すを恐れ或は厭ひたれば、之を得るに非常に困難せられた。監督より東京在勤の命を受けた新來の宣敎師ニユーマン、クーパー、ブランシエー諸氏も、家を借ることができぬので、來任當時は、英國エス、ピ、ヂの宣敎師ライト氏及シヨウ氏の住する一寺院(ヨウセンジ)に同居した。當時監督及諸氏が不自由なる假住ひをなしつゝあつたことは、ブランシエー氏の書簡中に、「小生は英國の敎友ライト及シヨウ兩氏と共に、佛敎の一寺院内に同居致し居ることを申上候が、此家は小生等多人數には餘りに狹隘に有之候。寒き日には暖爐を有する唯一の同室を小生等が、各々邦語敎師と共に、占領せざるべからざれば、勉學上に不便尠なからず候」とあるを以て察すべく、またブランシエー氏の書簡に、旅館の一室を假住ひとせられたる監督の事を記して、「ニユーマン氏、クーパー氏及小生の三人は、貸家を探し求めながら、監督を訪問致し申候。旅館に至り候所、椅子も卓も寢臺もなき、四疊半の一座敷に唯一の寢具たる毛布をまるめて隅に置き、日本家屋唯一の暖爐なる火鉢と稱する、灰と火を容れたる一尺四方程の箱を傍に控へ、前には書を開きて、獨り床の上に座し居らるゝ否な寧ろ跪きつゝある師に見え申候。支那日本傳道監督は、此一小室に靴をも穿かれず、靴下のまゝにて在らせられ候」とある。かゝる假住ひを三度かへて、明治七年二月漸く築地に廣大なる家屋を借受くることができた。此家屋の一部を監督及宣敎師の居宅とし、一部を禮拜室、學校とし、日曜日には二度の邦語禮拜、一度の英語禮拜を執行し、午後日曜學校を開かれた。學校は最初五名の生徒を以て開校せられたるが、六ケ月の後には、五十五名に增加せりといふ。此家屋は舊大名屋敷にてもありしか、師の記する所によれば、禮拜室には、百五十人を座せしめ、寢室には四五十の學生を入らしめ、敎室は七八十の生徒に使用するに足るものであつた。師の按手式記録には、明治八年九月二十六日東京に於ける第三回の按手式は、「東京入船町チヤペル」に於て執行せられたることが記されてあるが、それ以前は、「東京三十三番向ひ敎室」と記入せられたれば、此頃入舟町に移轉したものと見へる。
明治七年六月二十八日、東京に於る第一回の洗禮式あり、師は一名の靑年に洗禮を授け、同年九月十四日此靑年に按手せられた。之れ第二回の按手式であつた。是より先、此年三月十一日に、「三十三番向ひ敎室」に於て第一回の按手式あり、師は一名に按手せられた。翌八年第二回第三回の洗禮式に十名の受洗者あり、而して明治九年六月の師の報告には、受洗者十七名(大人十四、小兒三)按手受領者十六人、受聖餐者二十人とある、師は之に附記して、「此は江戸に於ける唯一の場所にての我等の働の結果なり」とあれば、當時入舟町以外に講義所のなかつたことは明である。後ち(明治九年中)駿河臺及び淺草に講義所を設け、明治十一年六月三十日駿河臺チヤペルに於て按手式が執行せられた。明治九年十一月二十九日東京に大火あり、殆んど一萬戸を烏有に歸し、五萬の人が家を失つた。此火災に監督の住宅、禮拜所、敎室も類燒し、圖書と家財の大半を失はれた。當時政府は居留地外に外國人の住居を許さゞりしと、居留地内に適當の家屋なかりしために、當時五十五名の生徒(四十六名寄宿生)を有したる學校を、火災後は一時閉校し、禮拜講義は假に師の居宅に於てなされた。是より先、師は居留地外に敎會堂を建設せんと欲したるも、當時政府の敎會堂建立に對する態度頗る曖昧なりしかば、之が實行を猶豫せられたるが、大火後師は斷然意を決し、深川西元町八番地に敎會堂建築に着手し、明治十年四月、大火後五ケ月に工事を竣へ、同年中に此敎會に於て、第一回の洗禮式を執行し、翌十一年七月四日第一回の按手式を執行せられた。之れ三一敎會(現今の眞光敎會)である。三一敎會設立後は、牧會傳道の中心となりて、禮拜日には市内遠近の信徒求道者は此處に參集し、監督自ら司牧の任務を執られた。明治十一年神田基督敎會堂を建設し、十二年六月一日第一回按手式があつた。明治十二年十二月二十六日再び東京に大火あり、入舟町の監督の住宅は再び火災に罹り、師は家財の大半を失はれ、小田原町に移られた。明治十五年十二月立敎學校三一神學校の校舍新築落成したる後は、師は同校寄宿舍の一隅に移り、之より監督職を退かるゝまで、學生と共に起居せられた。立敎學校新築成りし後は、師は附近の信徒及び學生の爲に、同校講堂を禮拜場となし、三一敎會より分離して、後の立敎敎會を設けられ、明治十八年四月五日最初の按手式を執行せられた。是れ現今の聖三一敎會の前身である。師は監督在職中、前記諸敎會講義所の傳道を助け、自ら築地立敎敎會、深川眞光敎會、淺草講義所の牧會、傳道の任務を執り、信徒を訪問し求道者を敎訓し、愛に富める牧師、熱心なる傳道師として孜々として勤められた。
監督は東京に移られし後も、支那監督として同國に趣き、上海、北京武昌、漢口、蘇州の各地を巡回せられた。明治七年八月米國聖公會總會は、監督が前年の請願を許容し、師を日本專任監督とした。茲に於て師が支那の任務は解かれたるも、其後支那ミツシヨン常置委員の請願により、幾度か同國に赴かれたことがあつた。明治十一年英派エス、ピ、ヂより、香港監督が日本に不在中、監督の任務代理を委託せられ、以來明治十八年八月まで、同派所屬敎會の信徒按手式を執行し、代理任務を執られた。明治八九年頃、東京附近の數ヶ所に三度傳道旅行をせられた、當時之等の地に十五名の求道者があつたといふ。
之れ監督が地方を巡回せられたる最初であらう。明治十一年川越に神學生を遣し、同十三年古河、館林、行德に神學生を派して傳道を試みたるが、當時邦人敎役者は一人もなかつたから、傳道師を定住せしむるに至らなかつた。師は千八百八十二年の報告に曰く。
『東京以外に我等の働を推進むるは困難なり其理由は、一は我等が傳道せんとする地に定住せしむべき適當の敎養を受けたる日本敎役者のなきと、二は、宣敎師が地方に住するの不可能なるにあり、條約に制限せられたる區域外には外國人は旅行免状なくしては行くことを許されず、而して其旅行免状なるものは唯だ二つの理由、一は健康上のため、二は學術研究の目的にて旅行する者に下附せらるゝものなり。されば多くの宣敎師はかゝる免状を以て地方に出で傳道に從事するは、正當にあらずと思惟せり」と。
地方に敎役者を在勤せしめたるは明治十八年からであつた。
此年より北多摩、熊谷、寄居、川越、幸手に敎役者を在勤せしめた。而して之等の地方に監督が最初に巡錫せられたるは、明治二十年であつた。此年北多摩(一月十五日)、熊谷(八月二十一日)、寄居(八月二十二日)、松山(八月二十四日)、川越(八月二十五日)に於て按手式を執行し、同二十二年八月、大宮(八月二十三日)、寄居(八月二十七日)、川越(八月二十五日)、熊谷(八月二十九日)、幸手(八月三十日)等を巡回し、洗禮按手を施された。大阪及其附近に於て按手式を執行せられたることを記せば、先ず大阪に於ては、明治六年十一月第一回の洗禮式を執行し、現存する師の記録によれば、翌七年三月古川町禮拜所にて、最初の按手式を執行せられた。
明治十七年四月聖提摩太敎會の最初の按手式を行ひ、同十九年五月聖慰主敎會聖保羅敎會の第一の按手を施し、同二十一年五月聖約翰敎會第一回の按手式を執行せられた。地方に於ては、明治二十一年一月和歌山、同年四月堺に於て最初の按手を行はれた、明治七年三月より同二十二年十一月に至るまで、師が東京及大阪並に其附近に於て按手せし信徒は、九百二十九名、英派諸敎會に於て按手せし信徒は二百五十三名、合計一千百八十二名であつた。
監督が在職中(千八百六八年より、千八百八十九年まで)、按手を授けて聖職に任じたるものは、支那に於て長老十人(支那人八外國人二)、執事四人(支那人二外國人二)にして、日本に於ては長老四人(日本人一外國人三)執事三人であつた。我國に於て最初に執行せられたる聖職按手式は、明治七年五月三十一日、執事クーパー氏及ブランシエー氏に按手して、長老の職に任じたことである。此按手式はYosenji(養禪寺[#陽泉寺の誤])という寺院に於て行われた。此寺院は英國宣敎師シヨウ氏が邦語敎師の名義を以て借り受け居宅としたるものであつた。當日の式にはシヨウ氏、ライト氏、バイバー氏(シ、エム、エス宣敎師)、クインビ氏が列席した。第二の聖職按手式は執事ウツドマン氏の長老按手にして、明治十五年六月四日三位一體主日、深川三一敎會堂に於て行われた。第三は明治十六年三月十八日復活前主日、深川三一敎會堂に於て、神學校卒業生金井登及び田井正一兩氏の執事按手式である。日本人にて聖職の按手を受けたるは、兩氏が嚆矢である。
第四は明治十八年二月二十四日聖馬太日、牛込昇天敎會に於て、山縣與根二氏に執事按手を授けられた、最後は明治二十二年十二月二十一日、築地三一敎會に於て、執事田井正一氏の長老按手式である。
監督は傳道の當初より夙に、基督敎主義の高等學校を設立し、日本靑年をして基督敎の感化に浴せしめ、また靑年の中に進んで神學を研究し、敎役者たらんとする人物を要請するの必要を感知せられ、斯る學校の設立を最大重要と見られた。されば大阪、東京の傳道を開始するや、師は先づ學校を開き靑年の敎育に力を盡された。東京に開設せられたる學校は、開校以來生徒の數次第に增加し、五十五名(寄宿四十六名)に達し、學生の受洗せし者も尠からず、前途愈々有望なりしが、明治九年の大火に校舍燒失し、居留地内に恰當の家屋なかりしために、閉鎖するの止むを得ざるに至つたことは、師が痛くも遺憾とせられたる所であつた。
其後(明治十一年)クインビー氏は、自宅に學校を開きたるに、忽ち生徒は二十五名の多數となり、猶ほ益々發展の見込ありて、專任敎師と校舍の必要が迫つた、當時監督は本國に向つて、屡々熱切に日本に於ける敎育事業を等閑にすべからざるを論じ、スペンサー哲學を最高の福音とし、ミル、バツクル、ハツクスレー、チンダルを新信仰の大使徒と仰ぐ無神唯物主義なる、現下日本の敎育に對抗すべき、基督敎敎育の急務を訴へ、靑年敎育に適良なる人物の派遣と、校舍建築を要請せられた。
明治十三年七月、我國在留の米國ミツシヨンの宣敎師會に於ては、敎育問題に關し大に協議する所ありしが、其結果は、日本に於る傳道事業を完成するには、四人の外國敎授と數名の宣敎師を加へて、速に完備せる大學を設立するの必要を認むと決議した。
師は此決議を報じて切に訴ふる所ありしが、遂に師の熱心なる請求は、傳道會社に許容せられ、此年十月ガーデナー氏は、立敎學校(英名セントポールススクール)專任敎師として來り、同氏の設計により校舍新築に着手し、十五年の春竣工し、米國大學の制度に類したる高等學校が、開始せらるゝに至つた、之れ現今の立敎學院の前身にして、此校舍は、明治二十七年の大震に崩壞したるが、創立以來此校に敎育を受けし人々にして、今日牧會傳道に從事するもの、令聞ある信徒として社會の各方面に活動するものは甚だ多い。
是より先、明治十一年十月より、英米兩ミツシヨン共同の神學校は開設せられ、監督は校長兼敎授として敎鞭を執らるゝことゝなつた。此共同神學校を開設するに至つたのは、同年五月東京に於て開きたる英米宣敎師會議の結果であつた。此會議には師と香港の監督及び英米宣敎師十五名來會したるが、議題の重なるものは、日本語祈祷書を一定する事と、日本敎役者の選定及び養成の件であつた。祈祷書を一定する件は、既に師が翻譯せられたる早晩祷文及び嘆願文を認定し、更に聖餐、聖洗、信徒按手式文、公會問答を委員に托して、翻譯出版する事に決した。
敎役者養成の件に關しては、共同神學校設置の議もありしが、シ、エム、エスは、此計畫に贊同せざりしとの報告ありたれば、議題とはならなかつた。然し香港の監督とエス、ピー、ヂーの宣敎師は、監督及び米派宣敎師と、此問題に就て協議し、兩ミツシヨン共同の神學校を開設し、學生は監督(ウイリアムス師)と同棲し、英米宣敎師の薰陶を受くる事に決定した。此決議の結果共同神學校を開設するに至つたのである。開校の當時生徒は十四名にして、監督は、共觀福音書、シヨウ氏は内面的證據論クインビー氏は舊約預言、道德學、説敎學、ブランシエー氏は敎會歴史、ライト氏は祈祷書の敎授を擔任せられた。監督が此頃の書簡中に、敎役者養成の必要を論じ、最後に次の如く記述されてある。「日本國民を敎化せんとする我等が唯一の願望は、日本敎役者の力に依らざるべからず、されば外國宣敎師たるものは、其時間と勢力の大部分を、適當なる人物を養成する爲に費すべきなり」と。是より後師は孜々として神學敎育に力を盡された。明治十五年立敎學校三一神學校の校舍成りし後は、神學校寄宿舍に學生と共に起居し、内外の敎務多忙の身を以て、なほ二三學科を擔當し、熱誠敎鞭を執られ、其高潔なる人格により、盡きざる感化を與へられた。
日本聖公會が組織せらるゝ以前は、日本に於て監督敎會と稱せられたるものは、英國のシ、エム、エス及びエス、ピ、ヂ二會社と、米國の監督敎會傳道會社が、各々獨立の傳道をなしたるものにして、純然たる外國傳道會社の事業であつた。然るに此三會社は、其主義綱領を同ふせるに拘わらず、各自獨立の運動をなし、何等統一の方針に出でざるは、傳道の擴張、敎會の發展を妨ぐるものなれば、三會社が共同の働をなし、日本に於て具體的一致の行動を取るは、強固なる日本敎會を建設するに必要なりとは、監督の夙に感知せられし所なりしが、此思想は日本信徒の間にも外國宣敎師間にも、漸次熟成して終に明治二十年日本聖公會の組織とはなつた、是より先、明治十九年五月、大阪に於て開催したるシ、エム、エスの年會は、英米三傳道會社の共同一致に關し、三傳道會社の連合會議を開かんことを希望すとの決議をなしたるが、ウイリヤムス監督及びビカステス監督も、大いに此決議を歡迎し、快諾を表したれば、同年同月英米傳道會社の聯合會が開かるゝに至つた。此聯合會は師議長となりて議事を司とり、來る七月各傳道會社の代表者を招集して、組織草案を附議する事に決した。此に於て師及びビカステス兩監督は、組織草案の起稿に着手し、古代敎會の慣例を參考し、又た近代に發達せる米國及ニユージーラント敎會の法憲法規等を參酌して草案を作り、又たカンターベリー大監督ベンソン博士にも報告して其賛同を求め、七月開會の代表者會に之を提出された。代表者會は之を可決し、翌年即ち明治二十年二月八日、英米傳道會社聯合總會に之を提出する事に決した。監督は當時の敎勢を本國傳道會社に報告して、左の如く云はれた。p>
『日本人が自國に於ける傳道事業に關係せんと欲するは、自然の情にして、當局者は須らく之れに應ずる處置を講ぜざるべからず。こは漸く人々の確信する所となりたる現下の趨勢なり。事業益々旺盛に趣き、信徒の數益々多きを加ふるに從ひ、此の感情の層一層に強大を致さん事は蓋し蔽ふべからず、日本信徒が同じく基督の旨を奉する者にして、傳道の方針には豪末の權勢なく、常に他の指揮制肘を蒙るは、最も不愉快とする所にして、己れ亦其事業方法に參與せんことを請ふに至るは、情に於ても理に於ても當に然るべき所なり。日本人の此願望は決して之を輕視すべからざるなり。且つ傳道會社の爲めに之を計るに、日本人をして一日も早く、自國傳道の事は自ら之れに當らざるべからざる事を覺悟せしめ、彼等をして其責任の重さを感ぜしむるの方針を取るを以て、策の得たるものとなさゞるべからず。是を以て在日本三傳道會社の監督は、明治十九年七月各傳道會社より代表者を出さしめ、三會社の協力と日本信徒の團結とをして、一層親近密接ならしめんが爲に、其法案を熟議せしめたりしが、議事頗る圓滿にしに假りに用ゆべき法憲法規を議了せり。英米敎會が此擧を贊助し、日本敎會が自ら法規を造るに至る迄、假りに之を實施するの權能を在日本監督に與へられんことを希望す』と。p>
明治二十年二月八日、豫定の如く聯合總會は開かれ、代表者會提出の草案を可決し、三日の後即ち二月十一日日本聖公會第一總會は、大坂に於て開催せらるゝに至つた。p>
日本聖公會第一總會は、英米宣敎師會に於て議決せられたる編制並に法規草案を議せんが爲めに、監督、宣敎師及び日本信徒代表者の會合であつた。此總會は明治二十年二月十一日、大阪川口三一神學校講堂に開會し、當日及び、十二日、十四日の三日間、討論熟議を重ね、日本聖公會法憲法規を議定した。
第一總會に出席したる内外の敎役者及び信徒代表者は左の諸氏であつた。p>
監督ウヰリアムス、監督ビカステス、シヤウ、フアイソン、エピントン、マキム、ポール、ベージ、ウドマン、アンデルス、ブランドラム、ハツチンソン、エドモンズ、チヤプマン、ダン、ガルドナル、ヒユース、ラニン、ハレル、東京飯田榮次郞、大阪生島英太郞、東京今井壽道、東京乾緝、東京泰呑舟、和歌山林虎之助、淡路新家舖三郞、不見西浦康定、大阪細見信太郞、東京貫元介、大阪大塚惟明、函館小川淳、佐賀渡邊保治、長崎洪恒太郞、和歌山川島敬造、熊谷金井登、大阪橫田如水、大阪高橋敬、淡路高田倉藏、奈良田中宇喜智、東京田中正、東京多治見十郞、大和名出保太郞、大阪中西義之、大阪中川藤四郞、長崎中村龜三郞、東京中島虎次郞、神戸村山次郞、大阪桑田澄作、東京山縣與根二、出雲山田善次郞、大阪山田淸風、大阪山下有任、德島牧岡鐵彌、熊本古閑武平、長崎木庭孫彦、大阪小林圭三、淡路餌取勝太郞、函館寺田藤太郎、石見野島忠、備後延藤重太郎、大阪寺澤久吉、和歌山有井龍雄、函館荒砥琢哉、大阪左乙女豐秋、橫濱木原寅吉、大阪衣笠景德、神戸水野功、東京平岡吉五郞、大阪森貞次、大阪淸田海一郞、大阪杉之原茂。p>
英米宣敎師等の議會に提出せる公會編制及法規草案は、提出理由として左の序文を付加せられた。p>
『大阪に開設せる敎會々議に集會したる我儕英米宣敎師等、この編制并に法規草按を總會に提するに當て、我等が此擧ありし理由を簡短に説明せんとす。
抑々我等三傳道會社に附屬する日本信徒諸君が、尚一層親密なる一致結合を求むる一般の希望あることは、數年前より我等の既に認知する處なり。然り而して今日は即ち曩に實施に適し居たるよりも、尚完全なる組織を始むる時機の到來せしことは、我等感悟する處なり。我等は此希望を充分に議定するに、大なる補益たるべき智識を有する者なることは、敎育と經驗とに因て自ら知り信ずる處なり。故に我等は同胞なる日本信徒諸君に、毫も嚴格なる方法を命ずることを願はざれども、我等先づ商議會を開き、日本聖公會の現今と未來との平安に、最も裨益なりと思考する方法を議定せり。之れ我等が共に希望する此目的を成就するに、最も便ならんと信じたるが故なり。
我等は成るべく速かに、我邦に於て獨立にして、悉く日本人を以て成れる基礎に、聖公會を建つべきの必要を深く感ずるなり、然れども我等の同胞日本信徒諸君の現今敎職の位階を受繼ぎ居るは、我等に因ること及び今日に在て、聖公會の事務を行ふには、全く我等を離るゝ能はざることを記憶せざるべからずと思考せり。
我等思ふに、此編制并に法規の如き基礎を採用するは、我等三傳道會社に附屬する者が、一致するに最も便にして、且つ他の基督敎會に屬する同胞信徒との一致をも成就すべき階梯ならん。之れ即ち我等皆な切に希望し、只管に祈禱する所なり。斯故に此草按を總會に呈し、注意深き考察を願ふと云爾。』p>
而して提出せられたる草案は、編制九ヶ條と法規十五章なりしが、議決せられたる憲法法規の序文及法憲の條項は左の如くであつた。p>
救主紀元千八百八十七年二月在日本英米ノ監督敎職信徒並ニ内國ノ敎職及ビ信徒代議員大阪ニ集會シテ會議ヲ開キ本會自治ノ整備ニ至ル迄假リニ制定スル所ノモノp>
法憲p>
第一條 本會ハ新舊約聖書ヲ以テ救ヲ得ルノ要道ヲ悉ク載セタル神ノ默示ナリト信ジ且ツ「ニケア」信經及ビ使徒信經ニ纂約セル信仰ノ道ヲ公認スp>
第二條 本會ハ主基督ノ命ジ給へル義理「サクラメント」(バプテスマ、聖晩餐)及ビ訓戒ヲ施行シ且ツ監督會長會吏の三聖職ヲ固ク守ルベシp>
第三條 本會ハ救主紀元千八百八十七年ヨリ毎二年ニ總會ヲ開クベシ(其時日會場ハ當時日本ニ在留スル監督ノ定ムル所ニ據ル)但シ監督ハ常置委員ト商議ノ上臨時總會ヲ開クコトヲ得ベシp>
第四條 總會ハ監督及ビ其認可状ヲ有スル諸敎職(懲戒中ノ者ヲ除ク)並ニ各地方會ニテ選擧シタル信徒代議員ヲ以テ組織スルモノトス(地方會ノコト法規第十章ニ在リ)但シ敎職ノ人員增加シタルトキハ敎職モ信徒ト同ジク代議員ヲ出スベキモノトスp>
第五條 會議ニ於テ監督ハ其可否ノ數ヲ別ニスベシ、敎職及ビ信徒代議員ハ之レヲ共ニシ又ハ別ニスルコトヲ得ベシ、而シテ會議ノ可否ハ監督ノ多數ト敎職及ビ信徒代議員ノ多數ニ據ル但シ監督ノ數二名而巳ナルトキハ若シ其一名敎職信徒ノ多數ニ加ハレバ之ヲ議決セシ者トスp>
第六條 正當ニ召集セル總會ノ議權ハ左ノ如シ
(一)本會ノ平安進歩ニ係ル事件ヲ議スルコト
(二)内外傳道會社ヲ設立シ之ヲ管理スルコト
(三)法規ヲ改正スルコト
(四)法憲ヲ改正スルコト、但シ其改正案ヲ定期總會ニ提出シ其承認ヲ得テ次ノ定期總會ニ於テ三分ノ二以上ノ同意ヲ得ルヲ要スp>
第七條 總會議長ハ臨席スル先任ノ監督タルベシp>
提出せられたる法規草案十五章中、第一章聖職志願者許可の件、第二章許可を得たる志願者の件、第三章命職試驗(聖職試驗)の件、第四章命職(聖職按手式)の件、第六章監督の件、第八章懲戒(聖職懲戒)の件は其審議を延期し、第十四章結婚並に離婚の件は始より章のみを置て其内容の條項を示さゞりしを以て次回總會に讓り、其他は改正增補して憲法と共に其年九月より實施する事になった。即ち第五章通則に於て敎職(聖職)の心得に關すること、第七章命職なき役員即ち傳道師の心得に關すること、第九章常置委員の選擧及資格に關すること、第十章地方會に關すること、其附則第一に於て東京、大阪、熊本、函館を以て地方會の中央と定められた。第十一章敎會委員に關すること、第十二章傳道會社、第十三章聖成せる建物、第十五章會議の定數に關する件を議決した。而して最後の議題は、公會の名稱であつた。此が確定を得る迄には、諸説粉々として、從來呼び來りし監督敎會の名稱を維持すべしと云うものあり、日本基督敎會と稱すべしと主張せしものありしが、結局多數により、日本聖公會と稱する事に確定した。
斯の如くして茲に日本聖公會は組織せらるゝに至つた。是れ實に日本聖公會の誕生にして、公會の歴史に特筆大書すべき大事件であつた。而して茲に新に誕生したる日本聖公會が、永久に記憶して忘るべからるものは、此總會の議長にして、日本に於ける基督敎會の基礎を据ることを許さるゝを以て、天下またと無き喜とし、多年産の劬勞をなしたる師父、監督ウイリアムス師其の人である。p>
監督が我が政府をして、基督敎禁制の法令を撤廢し、信仰の自由を許容するに至らしめんが爲めに、隱然力を盡されたることは、先に述べたるが、明治六年政府は基督敎禁制の高札を撤去し、爾來基督敎に對し緩和政略を取るに至りたれば、師は將來必らず日本政府は、更に進んで信敎自由を公許するに至るべしと信じ、我國の前途に幾多の希望を懷いて、愈々直接傳道に全力を傾注せられた。明治八九年頃の師の書簡には、今後十年には日本の宗敎界に大變革あるべしと、屡ば記述されたるが、師の期待せし如く、明治二十二年二月憲法は發布せられ、日本國民は信敎の自由を有することゝなつた。此年の報告中に、師は曰く、p>
『世界の歴史上に特筆大書す可き一大事件は起りたり、其關する所、日本帝國の前途に繋り、成果の見る可きもの頗る多かる可し。日本國皇帝は去る二月十一日を以て、完美なる憲法を發布し給へり。蓋し數年前の勅詔を履行し玉ひたるなり(中略)此憲法の發布により、日本帝國は一躍して專制國より、立憲君主國に進歩し、議會を召集して、法律を制定し、貴賤を問はず貧富を論せず、全國民をして悉く之れに服從せしむるに至れり。
此憲法を閲するに、我等此國の傳道に從事するものに取りて、重大なる影響を及ぼすべき箇條あり、同二十八條に曰く、日本臣民は(中略)信敎の自由を有すと、是れ即ち將來に於て、基督敎を寬容すと公言するものと云ふべし。何となれば佛敎神道の如きは、從來自由に放任せられ、之に就て寬容問題の起りたること未だ曾てあらざればなり。抑々此箇條の精神たるや、幾多の基督敎徒を招致し、奮つて基督の宗敎を此日出の國に傳播せしめんとするものに外ならず、而して各派の宣敎師は今や來りて群をなすに至れり。昨年末の統計によれば、新敎宣敎師の此國に在留する者四百四十三名にして、内既婚者百五十名、未婚者男二十七名女百二十四名なり。天主敎會は監督二名、敎職八十名、婦人傳道者四十名にして、希臘敎會は監督一名、敎師二名により代表せられたり。翻て我が敎會を見るに、既婚者男九人、未婚者男二人、未婚婦人九人、合せて其數僅に二十九名に過ざるなり。
我が敎會は此興味ある國民を導きて、主耶蘇を知らしめ、之を信仰せしむる大事業をなさんとするに、豫め其取るべき方針と、爲すべき事業を決定せざるべからず、而して其所決は神速に之を斷行せざる可からず。然るに我が敎會は、從來其責任を盡して毫も遺憾なしと云ふこと能はざるを如何せん。畢竟敎會が今に至るまで、敎役者の數に多きを加ふることに努めざりしは、其職責を全ふする能はざる一原因にして、今や新條約實施の結果、日本全國を擧げて之を外人の自由に開放するに至りたれば、外國宣敎師は何處に旅行するも何處に住居するも、何等の拘束を得ることなきの好時機に際會して、此欠乏の彌々明白なるを知るなり』と。p>
明治二十二年の報告は、師が監督としての最後の報告であつた。切支丹邪宗門禁制の法令が嚴重に行はれたる當時來任し、監督職に就きし明治初年に、禁敎撤廢に盡力せられたる師は、退職の其年而かも最後の報告中に、憲法の發布、信敎自由の喜報を本國に致すことができたは、いかに監督の喜悅と滿足であつたらう。憲法發布の當日、師は新聞の號外を讀んで、喜色滿面に溢れ、殆んど手の舞ひ足の踏むを知らざるものゝ如く、歡喜ばれたさうであるが、過去四十年間の生涯を我國に献げ、自ら所謂、此興味深き國民敎化のために、心血を注ぎたる師が、當時の歡喜、察するに餘りあることである。p>
明治二十二年四月、東京立敎大學に於て開かれたる日本聖公會第二總會が、師を議長として重要なる諸件を決議し、成功を以て終りし後、師は一宣敎師か米國聖公會總會に參列する爲に、歸國するに際し、監督院に呈出すべく、一書を託された。當時何人も其書の内容を知らざりしが、此年十月突如として、監督は辭表を呈出せりとの報が我國に傳つた。師が辭表を呈出せられたるは、特別なる理由があつたのではない。駸々として文明に其歩を進めつゝある日本に於ては、敎會の首腦者なるものは、新進氣鋭の人物たらざるべからず。豫は老躯此大任に堪へずと云ふにあつたさうである。惟ふに日本聖公會は既に組織せられ、公會の經營益々多事となり、條約改正の實施、憲法の發布は日本傳道の好時機となりたれば、此秋に際し内は經綸あり、學識ある敏腕の首腦者を要し、外は專心基督を傳ふる眞箇の傳道者を要すとは、師の深く感知せられたことであらう。而して師は前者を以て其器にあらずとし、自ら監督の職衣を脱して、後者たらんことを欲したのであらう。監督院に於ては熟議の上、師か多年の功勞に對し謝意を表し十月十八日を以て、師の辭職を承認した。
師が監督職を退かるゝや、米國傳道局本部は後任者の選定に苦しみ、數年間そのまゝ缺位となりをりたれば、其間師は常置委員の請願により、監督の敎務を行はれた。後ち傳道局本部より、臨時監督職務執行の爲めに、南タコタの傳道監督ヘヤー博士を派遣されたれば、それより師は東京地方に於て、長老の職務を執られた。明治二十六年三月、ジヨン、マキム師日本傳道監督に選擧せられ、同年七月十四日監督の按手を受けて、我國に歸任せらるゝに及び、師は瓢然去つて暫時本國に於て休養せられたるが、後ち再び瓢然として來り、マキム監督の管下に在つて、京都地方に於て長老の職務を執らるゝことゝなられた。