一千八百六十五年十月、フヒラデルフヒヤに於て開かれたる米國聖公會傳道局總會は極めて重要なる要件を決議せしが、其中日本傳道に關する條項は、長老チヤニング、ムーア、ウイリアムス師を、支那及日本の傳道監督に推薦する事であった。此總會の記録第九項に左の如く記されてある。
『(九) チヤニソグ、ムーア、ウイリアムス氏を支那及日本の傳道監督に選擧するの件は、代議院并に敎職院全會一致の賛成を以て可決せられ、傳道局員は此監督候補者に關して、興味最も深き數番の演説の後、監督ポツター氏の提出に係る左の決議案を通過せり。
決議
本傳道局は、日本駐在宣敎師チヤニング、ムーア、ウイリヤムス氏が、支那の傳道監督として、該國及び日本の傳道事務を統轄すべき職に推薦せられ、敎職院并に代議院の全會一致を以て此推薦を可としたるを聞き、茲に此選定に對し、多大の滿足を表し、同氏に對し滿腔の同情と、不撓の援助を致すべきことを通告する事
支那及日本監督被推選者
支那及日本監督に推選せられたる、チヤニング、ムーア、ウイリヤムス氏は、千八百二十九年七月十八日、ヴアジニア州リチモンド市に生れ、同州ウイリアム、エンド、メリー大學の卒業生にして、ヱ、ヱムの學位を有し、一千八百五十一年より一千八百五十三年まで、同大學に學び、後同州の神學校に於て神學を修め、一千八百五十五年六月、アレキサンドリアの基督敎會に於てミート監督より執事の按手を受け、同年十一月、ジヱ、リギンス氏と共に支那に向つて出發す、後外國傳道委員より、日本宣敎師に任命せらるゝに至る迄、支那に於て引續き其勞を執れり。氏の長崎に達したるは、一千八百五十九年七月にして、爾來一日の如く勤勞怠ることなかりき。』
本國傳道局委員より、支那及日本傳道監督に選擧せられたる通告に接して、師は、千八百六十六年(慶應二年)三月、長崎を出發し本國に向はれた。同年七月の傳道局機關紙には、『師は日本を出發し三月二十四日上海に着し、同地にて合衆國行の最初の便船を待受けつゝある。師の健康状態は此度の歸國をなすに至らしめた。師は監督職に就かるゝや否やに就ては、未だ決定せずといふ』と記載されてある。また同年十月の機關紙は、師の無事本國到着と、師は幾多の熟慮考察の上に、傳道監督たることを承諾せられたる事を報じた。之で見ると、師は長崎出發の際は、傳道局總會の決議に對して、熟慮考察中であって、未だ確答を與へられなかつた。思ふに敬虔忠誠なる師は、此數ヶ月の間は、神前に幾度か專念默想し、而して、衷心の強烈なる召命の感念と確信に動されて、遂に此大任命を奉じて起つべく決心せられたのであらう。
一千八百六十六年十月三日、紐育市聖約翰敎會に於て、師の監督聖別式は最も莊嚴に執行せられた。傳道局機關紙が報ずる所は左の如し。
『吾人は今ま傳道局年會の報告を我が讀者に致すに先ちて、支那及日本の傳道監督たる、チヤニング、ムーア、ウイリアムス氏の聖別に關して、ー言なかる可らず。蓋し此の興味深き禮拜は傳道局の會議と同日(十月三日)に行はれ、傳道局員悉く之に參列し、恰も同局事務の一部たるの觀ありたればなり。聖別の式はセント、ジョンス、チャペルに於て執行せられたり。
午前十時半、諸監督は、其職服にて會堂に入り、着席せらる。早禱式の司式者は、昇天敎會牧師博士ジヱ、カツトン、スミス氏、及びブルツクリン市聖三一敎會牧師、博士リツツルジヨン氏にして、聖餐式の前部は、オハイオの監督メルバイン氏、及びウイスコンシンの監督ぺイーン氏及び監督ケンバー氏によりて奉讀せられたり。説敎者は、ヴアジニヤ監督ジヨーンス氏にして、其題は聖馬可傳十六章十五節、「偏く世界を廻りて凡ての人に福音を宣傳へよ」なりき、基督の福音を最も忠實且つ有力に闡明し、辯舌亦た力あり、而して極めて流暢なりき。此説敎は此事業の爲めに、轉た人心を激勵するに足るものありき、冀くは全公會の耳に達せんこと。
且つ説敎者は、新選監督と交誼歳既に久しきことを語り、且つ其人の此大任の爲めに特に適材なることを述べられたり。惟ふに、ウイリアムス氏にして、若し此場にあらざらしめば、説敎者は更に多く氏に對する賞讃の辭を盡せしなるべし。されどウイリアムス氏の此式に列せらるゝあり、且つ其人の謙遜を知るが故に、充分其云はんと欲する所を盡されざりしものゝ如し。
説敎了りて後、新選監督は、博士ツウイング氏、及び博士デニソン氏に伴はれて、ボツター、タルボツト兩監督に推薦せられたり。而してヱチ、ヱチ、モーレル氏、新選監督の宣誓文を朗讀し、リー、ジヨーンス、ペイーン、ボツター、及ホヰツプルの諸監督は、監督會議長と共に、恭しく按手に加はれり。聖別終りし後、聖餐式行はれたり。此聖別式をして特に感興深からしめし所以は、啻に殆んど凡ての監督が、之に臨席したるのみならず、又た亞弗利加の傳道監督、及び將に支那の任地に歸らんとするネルソン氏、并に米國西部の傳道諸監督の列れるありて、説敎者は是等の人々の令名を巧に、其綿繍の辯舌中に織り込みしことなりとす。』
かくて監督聖別式を了り、翌年コロンビヤ大學より神學博士の名譽學位を受けられた。
監督は、聖別式を了へて直に歸任の意であったが、歸航便船の無き爲に、本國滯留を延さゞるを得なかった。然し其間、監督は東奔西走して、或は個人を訪問し、或は公會の席上に於て、日本支邦傳道に就て訴へ、大に人心を激勵された。又た監督の熱誠なる盡力により、一の傳道會は組織された。此會は一ケ月に一度集會して、講演を開き外國傳道地の報告を聞き各會員は若干の金を寄附し、之を以て支那人の子弟の爲に設けられたる、傳道會社の學校の補助に充つる事とした。爾來此會は都合よく進行し、大に傳道の精神を奬勵し、其興味を持續するに最も有効なるものとなった。
翌年(千八百六十七年)九月、監督は傳道局外國傳道委員の要請により、萬國聖公會大會に出席の爲に、英國に赴かれた。而して其翌年(千八百六十八年)明治元年一月十四日、桑港から上海に歸任せられた。千八百六十八年(明治元年)一月十五日、即ち上海到着の翌日、師の發信に曰く
『父なる神の大なる御惠に由りて、小生は昨夜無事當地に着仕候。小生の乘船グレート、レパブリツク號は、航海中逆風及び暴風怒濤に難され、且つ其積荷の甚だ重かりし爲め、桑港より橫濱迄の豫定時は二十二日なるに、實際二十九日半を要し候。加ふるに日本瀨戸内海の入口なる下之關に於て、再び抑留せられ候ため、桑港より上海迄の航程は、殆んど十二日遲延仕候。當地在留の宣敎師諸氏は皆々強壯にして、最も懇ろに小生を歡迎せられ候。之れ實に小生が敎會より托せられたる重大なる責任を盡すに於て、我が同勞者諸氏の深き同情を有し、且衷心より共働を得べきことを證するものにして、轉た會心の至りに奉存候。我等は皆此困難なる働に於て、上よりの恩惠及び強むる力の必要を感ずること甚だ切に御座候。願くは此大帝國に於て救主の王國を建つる爲めに、犬馬の勞を致せる我等宣敎師の爲に本國敎會各員の熱切なる祈禱を添えられんことを切望仕候。當地宣敎事業の詳細に就きては、何れ後便にて可申上候。』
支那日本傳道監督として、上海に歸任した監督は、歸來直に支那内地に大旅行を試みられた。此旅行の目的は、内地の傳道地として、適良の地方を選定する事であった。支那帝國内の大都市數ヶ所を視察し殆んど二千二百哩の旅行をせられた。此視察の結果先づ武昌に傳道を開始し、後ち續いて北京、漢口、蘇州、漢陽等の傳道に着手する事となった。又た師は數年間長崎に在つて淸語を語る機會が無つたから、再び支那に在て監督職を執行するには、支那語を復習する必要を生じた。上海に着後直に之に掛り、鋭意復習せられて、三月一日までに、洗禮式、聖餐式、信徒按手式、聖職按手式等を執行し、自由に會話する事ができるやうに成られた。此年の三月上海の敎會にて、五十三人の支那人に按手し、五月十七日に、ケンニオン大學の卒業生にして、長老ネルソン氏の敎導の下に神學を研究されたるYoung King Ngan氏に、執事の按手を施された。之等は師の支那に於ける第一の按手であった。
當時上海には、長老Chai氏主牧の基督敎會、長老ネルソン氏主牧の救主敎會あり、同地を去る五哩のKon-Wanには説敎場あり、聖職候補生Sung-Ting氏働き、同地を去る二哩の張家濱説敎場には、聖職候補生Hong Neok氏が働いた。其他病院學枚あり、宣敎醫師マクゴーン氏、長老タムソン氏、女敎師フエー孃等其任務を執られた。而して北京には長老セルフスキー氏定住し、氏は當時聖書の支那語譯に全力を盡されつゝあった。後ち監督は新傳道地武昌に居を移された、此は同地に於て支那敎役者と協力して働く宣敎師の來任するまで、同地に在留する必要があったからである。當時の通信に曰く、武昌に於てHohing氏と偕に、働く爲に直に何人かを派遣するは切要なることに候、何となれば小生は同氏のみを遺して去るに忍びず候と。斯くてホート、ブーン兩宣敎師が來任するまで、武昌傳道の任務を自ら負はれた。
千八百六十九年三月、武昌に於て第一の洗禮式は執行せられ、師はHohing氏の舊帥なる一學者に洗禮を授けられた。
千八百六十八年、師が支那日本監督として上海に歸任せられたる當時は、傳道地は上海及び北京にして、敎役者は長老三人(外國人二支那人一)傳道師數人、學校三、受洗者總數二百十九人、受聖餐者總數百四人なりしが、千八百七十二年には師が管轄の傳道地及び敎役者は、(一)上海及其附近、基督敎會、主任長老タムソソ氏、男女學校七、救主敎會、主任長老ネルソン氏、Kong Chai Wong氏、學校一、病院一、張家濱説敎場、聖職候補生Hoong-hiok Woo氏、Sau-nok説敎場、フエー孃、(二)北京、セルフスキー氏、學校一、(三)武昌及其附近ホート氏、ブーン氏、敎會一、學校一、(四)漢口Hohing氏、Young Kiung Ngan氏、傳道所一、學校一、(五)蘇州であった。千八百七十四年の報告によれば、更に前記の傳道地に數ヶ所の派出傳道地を加へ、長老九人(外國人七支那人二)、執事三人(外國人一支那人二)、宣敎醫師二人、女敎師二人、傳道師十數人、學校二十四(寄宿生百八人、通學生四百九十五人)、受洗者總數四百十人、受聖餐者總數二百三十人に增加した。p>
師は支那武昌に定住し、支那敎役者を補助して、同地の傳道に盡力せらるゝと共に、上海、北京、漢口、其他の傳道地を巡回して敎務を執られた。
『而かも小生は日本に於て福音の智識を弘むる何等かの好機會を捕捉せんことは最も好ましきことに御座候』と當時の書信中に記されてあるが、師は一日も我が日本を忘るゝことはできなかつた。然かも其日本傳道の現状は如何、一方日本の形勢の激欒は、基督敎傳道の爲に前途頗る多望なりと觀取しながらも、同勞者リギンス氏去り、宣敎醫師シミツト氏もまた去りて、師が屢ば熱切なる請求に拘らず、本國よりは日本の爲に一人の宣敎師も遣はされず、折角新敎傳道の先鞭を着けたる聖公會の傳道は、唯一の宣敎師たりし師が、監督の重職に就かれたれば、師自ら日本に留つて之が專務に當ることは能きぬので、餘儀なくも今や日本傳道は全く中止の状態にあった。此の如くなれば、當時師は日本を思ふて、「憤慨轉た禁ぜざるの思ひし、」「痛嘆の情胸臆を壓し悲哀の感に堪へず」と云はれた。p>
左に掲ぐるものは、師が監督職に就てから、第一に我國に巡回された時の書信である。いかに師が日本傳道に熱烈であつたかを想ふべく、また當時師の衷情を察すべきである。p>
『目下此國に於て宣敎師は、日本人に交際し之を敎訓するに就きては、拙者が曩に此國を去りし時よりも、一層自由に御座候。ダツチリフオームト敎會の宣敎師バラ氏は、醫師へボン氏の施藥所に於て、毎日曜日の朝若干の日本人を集めて、聖書を敎え居られ候。拙者は本週の日曜日を橫濱に於て通し、バラ氏の集會に出席致候處、凡そ十五人の日本人之に列し、甚だ靜肅且つ熱心に有之候。其人々は大抵聖書を開き其説明を傾聽致居候。ヘボン氏の病院は今や建築中に有之、其落成の上は治療を受けに來る患者に、基督敎を敎ふる積りなりと申居られ候。
橫濱に於てはヘボン氏、バラ氏及トムソン氏等は、目下新約聖書の飜譯に從事致し居られ候。此人々は毎朝集りて飜譯に從事し、今や既に聖馬太傳福音書の第二十章迄譯し了られ候。諸氏は拙者が該地にありて、其飜譯を助力せんことの希望を、熱心に現はされ候。
フルべツキ氏は、長崎に於ける唯一のプレスビテリアン宣敎師にして、一日數時間官立學校に敎え居られ候。同氏は大に其働きの有望なるを感じ、種々と興味ある事實を拙者に語られ候。乍併近頃長崎に於ける羅馬教會宣敎師のことに就て、幾分人心の激昂を來したること有之候爲め、當分の内は同氏の働きを詳しく發表するを好まずと申居られ候。
然るに飜つて、我が愛する敎會の此國に於ける働きを見るに、未だ一人の宣敎師の此大事業に從事せるもの無きを思ひ、憤慨轉た禁ぜざるの思ひに御座候。抑も現下の日本の如く傳道の爲に興味に充ち、美しき成果を收獲するの希望洋々たるの傳道地は、世界廣しと雖も又と有之間敷候。此國の人民は今や大に醒覺し、根本的の變事は日々に行はれ居候。彼等は競ふて外國の風俗習慣を採用し、基督敎徒とならんとの希望を抱ける者多く候。其中幾何かは只だ名義のみの信者となるに過ぎざる者も有之候はんかなれど、又其實忠誠にして全心を捧ぐるの信者となるべき者の少からざることを信じ候。夫れ斯の如く收穫の大原野は既に色づきて鋭鎌を俟てるものあるに拘らず、我敎會は此豐かなる足穗を刈り集めて、主の庫に入るゝの働きをなす人、一人も無之とは豈に遺憾の至りに候はずや。
我が愛する兄弟よ、拙者は會衆國の東西南北、各所を訪問したる後、今や只だ一人にて日本を通過し、此暗黑に漂ひ異敎迷信の中に漂へる人民を、眞の道に導かんが爲に、福音を敎ふる一人の宜敎師をも此國に遺す能はずして、淸國に歸らざるを得ざるとは、痛歎の情胸臆を厭し悲哀の感に堪えざる思ひに御座候。
思ふに神は此日本をして、其愛子の福音を受けしむる爲めに、今や其道を備え居給ふこと殆んど疑ふべきにあらず、必ずや或る人々を召して此最高の事業に從事せしめ、以て耶蘇基督を隅の首石となし、使徒と預言者を基となせる敎會を、此最も興味深き國土に於て、深く廣く且堅固に建設せしめ給ふべく候。神は既に基督の多くの司牧者中の或る人々を召して日本に於ける憐むべき異敎徒に對する御惠みの豐かなることを知らしめ給ひしにあらずや。
望むらくは神の御惠により、適當の資格ある人が、此マセドニヤの高き叫び、「來りて我等を助けよ」との聲を聞き、又「汝ヱルサレムを出でよ、我汝を遙かに異邦人に送り、海の彼方の島より選ばれたる者を集めしめん」との、我等の主の聲に應ずる人の起らんことを。
切に願くば此人民を暗き中より呼び出し、大なる光を與え給ふ神を讃むる聖なる國民たらしむる爲めに、忠實なる牧者の現はれんことを。』p>
更に他の書簡中に曰く、p>
『乍併茲に悲むべき事實は、此國は既に駸々として開國の氣運に向ひ、吾人が宣敎の準備は寧ろ此大勢の後へに瞠若たるの有樣に有之候。羅馬加特利敎會は稍や優勢に有之候得共、新敎の各派は遙かに其背後に落ちて、プレスビテリアン及びダツチ、リフオームト敎會は、僅に三人の牧師と一人の宣敎師を有し候。若し夫れ我敎會に至つては、悲ひ哉、我等の主の名に依りて、此國に入れる者未だ一人も無之、悲み且恥づべき事に候はずや、曾ては此國に於て最先鞭を着けたる我が敎會は、今や一人の代表者をも有せずして、既に獲得したる位置をすら棄てんとするは、何たる痛恨事に候ぞや。
鳴呼愛する兄弟よ、諸君は果して本國に於ける靑年敎職を奬勵して、此大事業に從事するの重要と光榮と特權とを悟らしめ、以て聖保羅が在昔自ら奮つて、異邦人の傳道に從事したる如く、今や此最も興味深き人民に、基督の測る可らざる富を宣傳するの光榮を有せんとの、熱情を激勵せらるゝ譯には相成不申哉、小生の如きは若し最も得策と認めらるゝに於ては、喜んで日本に歸り此事業に從事可致、日本に於ける基督致會の基礎を据ることを許さるゝよりも、喜ばしきことは小生に取りては、天下またとある間敷候。然れども此最高の特權、此最も高き名譽は、小生に許されざるを奈何せん。小生は只だ我が十字架を取りて、「聖旨のまゝに成たまへ」と申さんのみに侯。』p>
師がかくも熱切に日本の爲に宣敎師派遣を要請したれでも、明治四年迄一人の宣敎師も我國に送られなかった。されば師は常に日本と支那の間を往復し、支那に在ては監督の敎務に忙しく、日本に留つては傳道の任務を一身に負ひ、殆んど席暖るに暇がなかった。左の書簡は、一千八百六十八年(明治元年)十二月八日、我國よりの歸途、汽船コスタリカ船上に於て認められたものである。p>
『拙者は目下此國に於て、行はるゝ大變革と宣敎の好機を捉えんが爲めに、米國より宣敎師を派遣するの焦眉の急務たることを茲に再び切言致候。有力なる日本人及一二外國商人の意見を徴し候ふに、日本政府が基督敎に對して自由、寬容を與ふるの時は甚だ近く可有之、去れば我敎會は此久しく希望したる出來事を助け、且あらゆる好機を捉ふるが爲めに、日本に代表者を有すること最も必要に御座候。故に小生は誠實に日本國の爲めに訴へ、我外國傳道委員が少くとも、一人の宣敎師及一人の醫師を派遣せられんことを切に希望致候。取り分け小生は一人の醫師を有せんことを冀ひ候。若し其醫師が善良なる技倆を有し、且つ能く敎育せられたる基督敎信者にして有らゆる好機を捉へ、己れに接觸し來る人々に對し、基督の爲めに一言にても語り候はゞ、其効果や殆んど測る可らざるもの可之有候。
若し其醫師が正しき人にて且つ活發なる信徒たり、衷心より基督を愛し、自ら有する貴き信仰に他人を導かんとの熱望ある人に候はゞ、必ずや現時に於ては、敎職者よりも更に善き働きを爲し得ることは拙者の確く信ずる處に候。斯る醫師は必ず政府の最高の官吏に接觸し得べく、其治療の効は必ず彼等の信用を博し、其恩に感ぜしめ、以て彼等をして其云ふ處に耳を傾けしむるを得べく候。
若し斯る醫師が大阪に住居致し候はゞ、彼は時に國の首府なる都に招聘せられて、高級の官吏に接することを得、逐に京都に住居せんことを需めらるゝにも至るべく、斯くして此國を福音宣傳の爲めに開くに與つて大に力可有之候。曩に拙者大阪に之れ有し時、或高官は人を兵庫に遣し、外國醫師を招聘せしこと有之、當時恰も米國海軍の一軍醫京都に上りて、或堂上人に治療を致候。
斯の如く宣敎醫師は能く自ら此國人の爲めに善をなし得るのみならず、又能く拙者をして多くの人々に接觸せしむるの機會を與ふべく候。乍併、若し果して我傳道局が斯る醫師を送らるゝならば直ちに送らるべく、或は少くとも拙者が武昌に於ける任務を解きて日本に至り、其人と協力し得る場合に立至り次第、差遣せられたく候。今や實に日本傳道の爲めに、最も緊要なる時に際し、此千載一遇の好機は逸すべからざるものに候。他の諸敎會の傳道會社は、日本に於ける傳道事業の重要なるを覺り、此原野を占領せんが爲めに人々を送り出し居候。英國敎會の宣敎會社(c.m.s.)は今や特に其第一宣敎師を送り、長老敎會は近頃更に一宣敎師を加え、ダッチ、レフオムト敎會のフルべツキ氏は、近く今一人の同勞者を得らるゝ筈、羅馬加特力は多數の部屬を有し、現在日本の開港地一として同敎會宣敎師の在らざるは無く候。然るに何事ぞ我敎會は其主の事業に對して、極めて因循且つ冷淡には候はずや。
我等の敎會は此國に入るに先頭第一なりしにも拘らず、日本より援助を求むる高き叫びにも耳を假さずとは、欺きても餘りあることに候。願くば神の靈全敎會の人々を醒覺し、此國に於ける主の爲めの勞働者の必要焦眉の急なること、及び敎會の大首たる耶蘇基督が、我が敎會に托し給ひし事業を實行するの責任を、一層深く感ぜしめ給はんことを。』p>
師はかく本國に向つて切に日本の爲に宣敎師派遣を要求し、自らは支那武昌より時々我國に來り傳道に從事せられたるが、後ち日本の形勢は師をして此國に定住するの急務を感ぜしめ、また師は傳道の根據を大阪に据るを得策とし、明治二年十一月、武昌より居を大阪に移した。茲に於て、師が日本傳道の第一期長崎時代より、第二期大阪時代に移るのである。